「君たちはどう生きるか」
私はカバンに、マスクを常にしのばせている。
花粉の季節やインフルエンザの流行期などはもちろんであるが、とりあえず一年中常備している。
なぜなら、通勤電車のなかで、本を読みながら泣いてしまうことがあるからだ。
そんなときマスクがあれば、鼻をすすろうが顔が涙にまみれようが、あまりみっともない姿を公衆にさらすことはない。
そんな理由で持っていたマスクが、偉大な効果を発揮した本。
それが、吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」である。
この本は、旧制中学に通う本田潤一君=通称:コペル君が、家族に見守られ、友と時にぶつかり支えあいながら、大人になっていく様子を描いたものである。
コペル君は、父親と早くに死別したものの、裕福な家庭に育ち、中学でもトップの成績である。
そんなコペル君のいちばんの相談相手であり、父親代わりともいえる叔父さんとの会話を通じ、物語は展開していく。
コペル君は、母親にはなかなか話せない悩みや葛藤を、叔父さんにはポツリと打ち明ける。
家が貧しいクラスメイトがいじめられていること。
それを見ている自分が、何もできなかったこと。
一方で、いじめっ子に真正面から立ち向かっていった親友を、まぶしく見つめたこと。
・・・
コペル君は自分の非力や無力さを、叔父さんに話すが、そのたびにコペル君は、今まで考えてもみなかった視点を叔父さんに教えられる。
自分がいかに恵まれているかということ。
しかし、まだ消費する側でしかないこと。
貧しいクラスメイトは、家業の店を手伝い、すでに生産する側であるということ。
コペル君は、自分がまだ消費者でしかないことにいっそう無力を感じ、とともにすでに生産者となっている、そのクラスメイトに心から敬意を感じ、いつしか大好きな友達になっていく。
ところが、ここで一大事件が起きる。
いじめっ子に立ち向かっていった、あの勇猛果敢な親友が、その一本気さゆえ上級生にからまれたのだ。
しかしコペル君は、その状況を見ていながら足がすくんで動けない。
他の友達は彼を助けるために、身を挺して飛び出したのに。
コペル君は、良心の呵責にさいなまれて、とうとう高熱を出し、家で寝込んでしまう。
布団から出てこない息子に、いったい何が起きたのか事情が飲み込めない母親。
しかしコペル君から、ことの一部始終を告白された叔父さんは、コペル君の母親にそっと真相を話す。
そして母親は、布団にもぐるコペル君の傍らに座り、話す。
しかし、コペル君が遭った事件について直接言及するのではない。
「お母さんね、昔、こんなことがあったのよ・・・」と、自分の体験話だけして、そっと寝床を離れるのだ。
ここだ。
ここで、私は電車の中で「グシッグシッ」と声をたてて泣いてしまった。
コペル君を責めるでもなく、追い詰めるでもなく、ただ「お母さんね、こんなことがあったのよ」と語るだけ。
それがどんなにコペル君の気持ちをほぐし、温めたことだろう。
コペル君の生きていく糧になったことだろう。
とにかくこの母親の姿に、私は泣けて泣けて仕方がなかった。
この本は、3月頃から書店のレジ前に平積みになっていたため、進学・進級を迎える学生さん向けなのかもしれないが、育児書としても大きな力を発揮してくれているように思う。
と同時に、自分自身の青春時代を、「そういえばこんなこともあったなあ。どうしてああしなかったんだろう」と振り返る機会を与えてくれる師ともいえる本である。
あれ?そう考えると、コペル君の母親はこの本の登場人物なのではなく、
この本自体がコペル君の母親なんだな。
ときどき母親に会いに行くような気持ちで、何度も読み返したい一冊である。
もちろん、マスク片手に。
花粉の季節やインフルエンザの流行期などはもちろんであるが、とりあえず一年中常備している。
なぜなら、通勤電車のなかで、本を読みながら泣いてしまうことがあるからだ。
そんなときマスクがあれば、鼻をすすろうが顔が涙にまみれようが、あまりみっともない姿を公衆にさらすことはない。
そんな理由で持っていたマスクが、偉大な効果を発揮した本。
それが、吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」である。
この本は、旧制中学に通う本田潤一君=通称:コペル君が、家族に見守られ、友と時にぶつかり支えあいながら、大人になっていく様子を描いたものである。
コペル君は、父親と早くに死別したものの、裕福な家庭に育ち、中学でもトップの成績である。
そんなコペル君のいちばんの相談相手であり、父親代わりともいえる叔父さんとの会話を通じ、物語は展開していく。
コペル君は、母親にはなかなか話せない悩みや葛藤を、叔父さんにはポツリと打ち明ける。
家が貧しいクラスメイトがいじめられていること。
それを見ている自分が、何もできなかったこと。
一方で、いじめっ子に真正面から立ち向かっていった親友を、まぶしく見つめたこと。
・・・
コペル君は自分の非力や無力さを、叔父さんに話すが、そのたびにコペル君は、今まで考えてもみなかった視点を叔父さんに教えられる。
自分がいかに恵まれているかということ。
しかし、まだ消費する側でしかないこと。
貧しいクラスメイトは、家業の店を手伝い、すでに生産する側であるということ。
コペル君は、自分がまだ消費者でしかないことにいっそう無力を感じ、とともにすでに生産者となっている、そのクラスメイトに心から敬意を感じ、いつしか大好きな友達になっていく。
ところが、ここで一大事件が起きる。
いじめっ子に立ち向かっていった、あの勇猛果敢な親友が、その一本気さゆえ上級生にからまれたのだ。
しかしコペル君は、その状況を見ていながら足がすくんで動けない。
他の友達は彼を助けるために、身を挺して飛び出したのに。
コペル君は、良心の呵責にさいなまれて、とうとう高熱を出し、家で寝込んでしまう。
布団から出てこない息子に、いったい何が起きたのか事情が飲み込めない母親。
しかしコペル君から、ことの一部始終を告白された叔父さんは、コペル君の母親にそっと真相を話す。
そして母親は、布団にもぐるコペル君の傍らに座り、話す。
しかし、コペル君が遭った事件について直接言及するのではない。
「お母さんね、昔、こんなことがあったのよ・・・」と、自分の体験話だけして、そっと寝床を離れるのだ。
ここだ。
ここで、私は電車の中で「グシッグシッ」と声をたてて泣いてしまった。
コペル君を責めるでもなく、追い詰めるでもなく、ただ「お母さんね、こんなことがあったのよ」と語るだけ。
それがどんなにコペル君の気持ちをほぐし、温めたことだろう。
コペル君の生きていく糧になったことだろう。
とにかくこの母親の姿に、私は泣けて泣けて仕方がなかった。
この本は、3月頃から書店のレジ前に平積みになっていたため、進学・進級を迎える学生さん向けなのかもしれないが、育児書としても大きな力を発揮してくれているように思う。
と同時に、自分自身の青春時代を、「そういえばこんなこともあったなあ。どうしてああしなかったんだろう」と振り返る機会を与えてくれる師ともいえる本である。
あれ?そう考えると、コペル君の母親はこの本の登場人物なのではなく、
この本自体がコペル君の母親なんだな。
ときどき母親に会いに行くような気持ちで、何度も読み返したい一冊である。
もちろん、マスク片手に。
- 関連記事
-
- 黄金を抱いて翔べ 高村薫 (2012/11/03)
- 「プラハの春」 (2012/02/19)
- 「春にして君を離れ」 (2012/01/08)
- 「ピース」 (2012/01/06)
- 「君たちはどう生きるか」 (2011/05/01)