僕の声は届かない。でも僕は君と話がしたい。  近藤崇

「今まで一歩一歩登ってきたように、これからも自分の足元を見つめ一歩一歩登ってゆけば、今まで目指していた山より高い山の頂上に立つことができると思うよ。
今まで見たことのない景色を見ることができると思うよ。
一歩一歩登っていこうね。」

(本書内「母の日記」より)
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 生きるうえでは、多くの苦しみ、悲しみがある。なのに、皆生きるために必死で、多くの人が死にたくない、なるべく元気で長生きしたいと願っている。
 その「生きたい」と思う原動力とは何なのだろう。私は、何をもって「生きたい」「生きてて良かった」と思うのだろう。
 そんなことを昏々と考えざるをえない、重い一冊だった。
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 この本の著者は、現在32歳の若き医師だ。
 彼はがんセンターに勤務していた28歳の時、突然脳梗塞で倒れ、聴覚と声を失う。体の自由もほとんどきかず、動かせるのは右手だけだ。
 しかし、彼はその右手を使い、世界中の人々と対話を続けている。Facebookの「いいね!」(既読の意)が彼のエネルギーの源だ。



 本書には、著者の闘病の記録、医師という夢を果たすまでの努力の道筋、そして著者を見守る母親の手記が載せられているが、それを読んで強烈に思うのは「生きるためにはまず、希望とか未来といった抽象的なものではなく、今そこにある楽しみが必要だ」ということである。

 「今そこにある楽しみ」とは、たとえば食事や対話だ。
 
 著者は意識不明の期間が長期にわたったため、体中の筋力が著しく低下している。
 顔面筋が弱いため表情を作れず、咀嚼筋が弱いため食事も満足にできない。また、食べられたとしても舌の筋力が衰えているため味覚をほとんど感じず、呼吸筋の低下と肺胞の破壊により声も出せない。
 著者はそのような状況に絶望し自死すら考えるが、経管栄養からご飯粒を食べられる食事へ、そして完全な孤独から指文字を使った対話へと快復していき、生きる喜びを叫ぶ。

 なかでも印象的なのは、「耳が聞こえないことを周囲がわかってくれた瞬間」のエピソードだ。

 著者は最初、話せず、聞こえず、動けないため、目の前の人間と全くコミュニケーションをとることができなかった。相手が何かを話していても、それが聞こえないことを伝えることができないため、対話というものが完全に断たれていたのだ。
 そして限界を感じていた時、ついに著者の母親が、この言葉を紙に書く。 

「あんたまさか耳が聞こえないの?」

 その瞬間、著者は心の中でジャンプして、こう叫んだという。 

<生きてて良かった!!!>


 このくだりを読み、生きる喜びとは、これほどまで近くにあるのかと驚いた。
 壮大な夢を描くのもいいだろう、理想を追求するのもいいだろう。
 しかし、まずはご飯が食べられて、誰かと対話をできる。そんな何でもないことを遂行するのが、人間にとって第一に必要なことなのだ、と強い衝撃を受けた。

 人は何をもって「生きる喜び」を感じるか。「生きてて良かった」「生きたい」と感じるか。
 近藤氏の闘病記には、そんな「人生に対する根源的な問いと解答」がある。

 おそらくこれから、何度でも読み返すことだろう。
 「生きる意味」を見失いそうになった時、「生きててつまらない」と落胆しそうになった時に読めるよう、本棚のいちばん手に取りやすい場所に置いておこうと思う。

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アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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