暗いブティック通り パトリック・モディアノ

 結局のところわれわれはみんな≪海水浴場の男≫なのであり、≪砂は――と彼の使った言葉をそのまま引用するが――何秒かの間しかわれわれの足跡を留めない≫

(本文引用)
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 小1の娘が、最近しばしばこんなことを言う。

 「『今』って言った瞬間に、もう『今』じゃないんだよね」

 そしてその言葉に続けて、「今ここにいる『私』とは何か」「何秒か先の『私』は、もう今の私ではないんじゃないか」といった疑問を次々と口に出す。
 確かに「今」と言った瞬間、もう「今」ではなくなる。そう考えると、「私」という存在とは、ごく薄いフィルムが何層にも重なったものに思えてくる。
 アニメーションのセル画のごとく、連続しているようで、実は1枚1枚の静止画がパラパラパラパラッ・・・とめくられているだけなのかもしれない。そんな気がしてくるのだ。


 では、そう仮定するとして、そのセル画が一部分ごっそり抜き取られたとしたら、どうだろう。うっかり誰かが、バラバラにしたり紛失したりしたら、「私」はどうなるのか。

 2014年ノーベル文学賞受賞者パトリック・モディアノの小説「暗いブティック通り」は、そんな「私」に迫る物語。
 過去の記憶を失った男が、自分の正体を探る旅に出る、詩情豊かな一冊だ。
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 探偵事務所に勤めるギ―・ロランは、過去を失った男。このたび雇用主が引退するのに伴い、本格的な過去探しに乗り出す。
 ギーは、カフェ等で聞き込みを行い、わずかでも手がかりがあればそれをとことん追いつづけ、次第に自分の過去を見つけ出していくのだが・・・。
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 この小説は、単純にミステリーとして娯楽性を楽しむこともできるし、「私とは何か」という哲学的な読み方もできる。
 しかし、この小説の魅力はずばり「主人公を自分に置き換えて楽しめる」ことである。
 そんなのどの小説でも同じだ、と思われるかもしれないが、この小説の場合、ちょっと違う。「主人公の気持ち、わかるわ~」という程度ではなく、「私もギーと同じかもしれない・・・いや、私もギーだ!」と、すっぽり主人公に同化できるのだ。

 例えば、こんな経験はないだろうか。

 幼少時代に知り合いだった人に、大人になってから再会し、声をかけたところ「覚えていない」と言われたこと。
 逆に「●●さんだよね?」と笑顔で話しかけられたものの、全く思い出すことができず困ったこと。

 また、ごく身近な人の過去のなかに、自分がいない時代があることに不思議な感触をもつこともある。
 学生時代の両親、お互い知り合う前の夫や妻、自分が生まれる前の家族写真・・・「私」の存在・歴史のなかに確かにいる人たちが、相手の歴史のなかには全く存在していなかったり、その逆もあったりする。
 そしてそんな事実があっても、皆、支障なく日常生活を送っている。
 至極当り前のことなのだが、こう考えると、程度の差こそあれ誰もがギー・ロランと言えるのではないだろうか。

 よってこの物語は、ミステリアスかつ幻想的でありながら、このうえなく現実的。読者の身も心もまるごと引きこんでしまう魔力を持つ、傑作なのだ。

 フランスでは、その人気から「モディアノ中毒」という言葉もあるらしい(2014/10/9日本経済新聞より)。
 この小説を読み、なるほど、それがよくわかった。


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アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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