鹿の王 上橋菜穂子

 他者の命を奪おうとするもの、他者の命を支えて生きるもの、雑多な生き方がせめぎ合い、交じり合い、流れていく、このすべてが、生きる、ということなのだろう。
(本文引用)
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 私は、なるべく多種多様な本を読むよう努めているのだが、ひとつだけなかなかなじめない分野がある。それはファンタジー。
 とにかく魔法とか超自然とか幻想的なムードといったものが苦手で、つい「現実に存在しないものを読んでも仕方ない」と気持ちが覚めてしまうのだ。
 あと、登場人物の名前が覚えにくいのも、その一因。小さい「ッ」とか「ファ」とか「ミ」「レ」とかが入ると、途端に覚えられなくなる。これが「佐藤」「鈴木」「高橋」などであれば、だいぶ読む気が起こるのだが、それだとファンタジーっぽくなくなるであろう。
 そんなわけで、私はファンタジー小説が読めないまま、ファンタジー小説が似合わない年になってしまった(もう20年ぐらいすれば、逆に似合うようになるかもしれないが)。

 しかしこの小説は、ちょっと違った。
 ファンタジー小説なのに「今、ここにある現実を見つめよ」と主張している。やや極端に言えば、ファンタジー小説でありながらファンタジーを否定していると言えるのだ。

 よって、私は非常に面白く読めた。登場人物の名を覚えるのに四苦八苦したのは相変わらずだが、ストーリーには大きくうなずけるものがあった。
 それはおそらく、著者上橋菜穂子氏がこのような思いで執筆していたからだろう。 

「書き始めて、つくづく悟ったのですが、この発想を、異世界を舞台にして書くというのは、大変な作業でした」

 (あとがき引用)




 そう、この物語は、揺るぎない事実を幻想世界に取り込んだ物語。非現実を舞台にしながらも、「人の体と人間社会は、異物との共生・排除を繰り返す」という現実を鋭く描き切った傑作なのである。
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 舞台は、ある岩塩鉱。そこには、ある巨大帝国に飲み込まれたために、奴隷となった人間たちが囚われていた。
 あるとき、そこで謎の病が広がる。それは、獣に噛まれることでかかる病気で、感染した者はまず100%死ぬ。
 しかし、一人の男だけは死ななかった。獣に深く噛まれ、はっきりと死を覚悟したにも関わらず一命を取り留める。だが、男はその病で妻子を失い、奴隷仲間の死体の数々を前に呆然とする。
 その瞬間、男は猛烈な怒りに突き動かされ、足枷を引きちぎり逃亡する。

 病による奴隷全滅は、為政者たちを驚かせた。そこで、名医といわれる男が治療法を考えるよう依頼される。
 彼は、有効な治療法を見つける手立てとして、生き残った奴隷の行方を血眼で探す。
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 この壮大な物語は、様々な読み方で楽しめると思う。
 命をかけて守り合う親子の物語、帝国の興亡物語(ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・熱」をフィクションにしたような感じ)、人間・動物・自然の共生の物語・・・多様な視点で読むことができるだろう。

 そのなかで私が選んだのは、「見えないものとの闘い」の視点だ。
 この「見えないものとの闘い」という言葉は、アイリック・ニュート著「世界のたね」から拝借した。
 「世界のたね」とは、真実をつかもうとした科学者たちのエピソードが多数載せられている本だが、そのなかの、病と闘った科学者たちの話が「見えないものとの闘い」だ。
 牝牛のかかる病気・牛痘の水ぶくれから取った液を、少年に塗りつけた実験から、天然痘予防を実現したジェンナー。医学実習生らに手洗いを励行したことで、一時産褥熱死亡者を激減させたゼンメルヴァイス・・・。
 「鹿の王」に登場する医者の闘いは、ジェンナーやゼンメルヴァイスの闘いとよく似ている。そこに私は心を奪われた。


 医師は、犬の病薬から薬を作りだし、患者を治そうと試みる。しかしそこに、大きな壁が立ちはだかる。
 獣の乳すら口にすることを「穢れ」と拒み、神を信じてさえいれば病にかからぬと主張する声、占領された国の呪いがこの病を呼んだという声・・・そんな主張が、医師の科学的治療を妨害する。
 「神を信じてさえいれば・・・」という主張は、裏を返せば「神という名のもとで、簡単に死をあきらめる」ことにもなる。医師の男は、そのような「あきらめ」を決して許さず、治療方法確立に邁進する。私はその姿に感動し、また同時に「人類が病と闘ってきた軌跡」に思いを馳せ胸が震えた。

 家族、歴史、医学、社会・・・読む人の関心によって、感動のポイントは異なってくるかもしれない。だが、どの入口から入っても、読み終える頃には「人類はなぜ生き続けてきたのか」「どうやって生きて来たのか」「そしてなぜ死ぬのか」と自分に問いかけることだろう。
 「鹿の王」を読む時間は、そんな「生命の根本」を考える豊潤なひとときだった。

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アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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