降霊会の夜 浅田次郎

 人間は、嫌なことを片っ端から忘れていかなければ、とうてい生きてはいけない。でもな、そうした人生の果ての幸福なんて、信じてはならないと俺は思う。
(本文引用)
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 生きている-それだけで、人はどれだけ罪を重ねるのだろう。そして私は今まで、知らず知らずのうちにどれだけ罪を犯してきたのだろう。
 読みながら、そんなことを思い総毛立った。

 ひょんなことから、過去の知人と再会を果たす一人の男。
 しかしその知人とは、いずれもこの世を去った者たち。彼岸と此岸とが対話する、謎の降霊会で男が気づいたこととは-。
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 主人公は、高原に住む年配の男性。幼少時代からのニックネームは「ゆうちゃん」だ。
 ある日、ゆうちゃんの住む地域一帯に雷雨が起こる。庭を見ると、ひとりの女が佇んでいる。


 雷の恐怖で動けなくなっている女性を、ゆうちゃんは招き入れるが、どうも女性の様子がおかしい。現世の者とは思えぬ雰囲気を醸し出しているのだ。
 そして女は言う。 

「会いたい人はいませんか。生きていても、亡くなっていてもかまいません」

 ゆうちゃんは、女に誘われるがまま、霊媒師のもとでかつての友人らに会う。
 父親に背中を押されダンプカーに巻き込まれた少年、離れた土地で自ら命を絶った女性・・・。
 彼らは皆、ゆうちゃんの心に住み着くことができぬ悲しみを抱えたまま、早逝した者たちだった。

 そして、ゆうちゃんの頭の中に、あの声が響く。 

――何を今さら。忘れていたくせに。


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 以前、村上春樹の「色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだとき、「心の傷は完治しない」ということを改めて悟った。
 クラスの雰囲気に引っ張られる形で、クラスメイトを無視してしまったこと、仲良し3人組のなかで、自分は2対1の「1」の方になったこと・・・それらの出来事は、何十年経っても、思い出すだけで心がよどみ、顔をしかめたくなる。「多崎つくる」の物語は、そんな心の傷と向き合う機会を与えてくれた。

 しかし、この「降霊会の夜」は、さらに一歩踏み込んでいる。
 本当の罪は、覚えている出来事のなかにあるのではない。
 すでに私が忘れてしまった出来事のなかに、大きな罪が潜んでいる-そのことに初めて気づかされたからだ。

 この物語は、大きく前半と後半に分かれているが、特に前半が強烈だ。
 ゆうちゃんが小学生の頃、山野井清という転校生がやってくる。
 清は自身を「銀行員の息子」と語るが、それは真っ赤な嘘。清は、ろくでなしの父親と共に「当たり屋」をしていた。父親の遊興費を稼ぐために、何と清は、走る自動車の前に身を投げていたのである。そしてある日、ついに恐れていたことが起こる。
 その様子を見たゆうちゃんは、清の存在そのものを、元から消す決意をする。

 本書は、この「忘れ去ること」の残酷さ、「記憶に留めることすらしない」非情さを、血の滴るごとくえぐり出している。
 マザー・テレサは、かつて「愛の反対は憎しみではなく無関心である」と言ったというが、この物語を読むと、それを痛烈に感じる。
 そしてゾッとする。
 今まで私は、どれほどの罪を犯してきたのだろうか。どれだけの人物が、私の知らない場所で、私への憎しみを膨らませているのだろうか、と。

 自分の行いすべてを覚えておくことなど不可能だし、全く関心の及ばない場所で恨まれても、それはもう仕方がない。100%防ぐことなど、まず無理だ。
 しかしこの物語を読み、己が身を守るがために、わざと現実から逃げるということだけはやめようと思った。湧き起った思いは、たとえそれが激しい嫌悪であっても受け止める-大きな悲しみを背負いながら彷徨う霊の叫びには、その勇気を奮い立たせる力がある。

 この世とあの世をつなぐ物語「降霊会の夜」。
 オカルトチックでありながら、今ここにいる自分を凝視するのに格好の小説である。
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アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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