「日の名残り」

「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ。」
(本文引用)

___________________________________

 「仕事のプロ」とは、どんな人を指すのだろう。

雇用主の理念を理解し、
忠実に業務を遂行し、
機密情報を守り、
柔軟性を持って状況に適応していく・・・


 そんなところであろうか。

 できそうでできないこれらのことを全て実現し、企業や社会に利益をもたらしているスーパービジネスマンの姿は、いわゆるビジネス本ではよくみられる。
 しかし、そんな本とはかけ離れた小説に、真の「仕事のプロ」の姿を見ることができた。

The Remains of the Day-カズオ・イシグロ著「日の名残り」である。
 この作品は、英国で最高の文学賞ブッカー賞を受賞し、映画化もされた、イギリスでは代表的な小説だ。

 表紙にはイギリスの田園風景が描かれ、舞台は貴族の屋敷・・・叙情的な小説であることは想像できても、ビジネスのプロが登場するとはにわかに想像できないであろう。

 しかし、この小説の中に、確かに「仕事のプロ」はいる。
 「謎解きは~」ではないが、主人公である執事の男性である。




______________________________

 2世紀にわたる名門貴族ダーリントン家の執事・スティーブンスは、人生の全てをダーリントン卿に捧げてきた。

 世界大戦に関わる重要な会議では、まるで空気のように名士たちをもてなし、卿の恥は自分の恥と身を挺して主人を守る。
 それを彼は快感に思いながらも、一方で葛藤との戦いでもあった。

 同じくダーリントン家に仕える年老いた父親への解雇通告、女中頭との確執・・・。
 「泣いて馬謖を斬る」ような場面に何度も会いながら、スティーブンスはただひたすら業務を遂行し、ダーリントン・ホールにまつわる人達との信頼関係を構築していく。
 しかしそんなある日、ダーリントン家の屋敷がアメリカ人の手元に渡ることとなる。

 イギリス人の主人から、文化も風習も違うアメリカ人の主人に変わるということは、スティーブンスにとっては一大事である。

 「私も従来のやり方を急に変えてしまうことにはためらいをおぼえます。しかし、伝統のための伝統にしがみつくやり方にも反対です」


 スティーブンスは新しい職務計画書を作成することになるのだが、戸惑うばかり。
 ダーリントン卿のもとでの日々を懐かしく思いつつも、執事として新しい主人に仕える準備を怠ってはならない。

 それを慮ってか、新しい主人ファラディは、スティーブンスに休暇を与える。
 スティーブンスは田園のなか、フォードを走らせて旅をする。
 そこで彼が決意したものとは・・・?

 ・・・これを読んでいると、一生懸命に働いている人の姿というのは、何と清々しくて美しいものだろう、そして人の信頼を得ている人間というのは、何て太陽が似合うのだろう、と空を見上げたくなる。
 スティーブンスは、見ようによってはちょっと不恰好なほどに真面目だが、仕事をする人間のあるべき姿が凝縮されている。いや、生きるべき人間のあるべき姿、といった方が良いだろうか。
 そんな純粋な彼が悩み苦しむ姿を追っていると、自分まで一緒に旅をしているような気持ちになり、時々、涙をぬぐうハンカチを貸してあげたくなってしまう。

 そんな「美しい人間」が描かれた、実に「美しい物語」だ。

 そして、このレビュー冒頭に載せた言葉。

「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ。」

 この夕日は、今を人生の夕暮れ時と考えての言葉であろうが、誰もが素晴らしい夕方を過ごせるわけではないだろう。
 真面目に誠実に、仕事のプロに徹してきたスティーブンスだからこそ味わえる、至福の夕方なのだ。

 私もいつか、人生の夕方を迎えるだろう。
 そのときに、美しい夕日を見ることができるように生きていきたいものである。

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『大地』など

こんにちは。またおじゃましてしまいました。
バックの『大地』、ぼくも大好きです。つきなみな言い方ですけど、名作ですよね。読んでから何十年と経ってしまったいまでも、読書中の胸の高鳴りが思い出されます。
『日の名残り』はこの年明けに読み返しました。三度目ですが、読むたびに、ウーン、まいった、と唸らずにはいられない作品です。
たとえば、これは執事の一人称で書かれていますが、ばか丁寧で、まわりくどくて、紋切り型で、ウィットに欠ける、というのは、普通なら作家が避けてとおる語り口です。カズオ・イシグロさんはあえてそういう語り口をとることで、それでしか表現できない世界をつくりあげたんですね。すごいです!
『ぼくと1ルピーの神様』、面白そうなので、こんど読んでみます。
あっ、それと、高野さんの本、面白いですよね。これまた、ぼくも大好きです。


「大地」と「母よ嘆くなかれ」を重ね合わせると、また涙が・・・。

犬飼様

コメントありがとうございます!
「騙し絵」は、我が家の近所の書店で大プッシュされています。本当に感動したので、嬉しいです。

パール・バックの「大地」は、同じくバックの「母よ嘆くなかれ」と重ね合わせて読むと、胸が痛くなります。
「母よ嘆くなかれ」で、パール・バックは重度の知的障害をもつお嬢様の育児について、克明に描いています。
現実をなかなか認めることのできない葛藤、そして自分の人生すべてを娘にささげるべきか否か、娘にとって最適な環境とは何か・・・。
その描写は読むだけで苦しくなるほどです。「大地」に登場する、障害のある娘さんは、バック自身の娘さんをモデルとしているといわれていますが、どんな思いで書いたのだろうと考えると、涙が止まらなくなります。

高野秀行さんの本は、本当に面白いですよね。「幻獣ムベンベを追え」とか・・・。ある意味、日本一の冒険家(植村直己さんや三浦雄一郎さんをしのぐ)かもしれません。

「ぼくと1ルピーの神様」、とにかく痛快なので、ぜひお読みになってみてください。
(プロの作家の方に対して、このような言い方も不遜ですが・・・)。

どうもありがとうございました。

お願いがあります

いきなりすいません。日の名残りについての扱っている時代に対する、作品が書かれた時代のとらえ方はどのようなものだったかを聞きたいのですが答えていただけますか??

イギリスの没落と夕日を重ね合わせているのでしょう・・・と思ったのですが、

コメントありがとうございます。

最初に、私はこの小説を歴史的観点ではなく、スティーブンスという執事のプロ根性に意識を向けながら読んでいたことを述べておきます。
そのうえで返信いたしますことを、ご了承ください。

ダーリントン家の運命やスティーブンスの葛藤は、当時の英国の没落およびその衝撃を表しているのでしょう。
また、最後の「夕日がいちばんきれい」というのは、そんな英国に一筋でも希望を見出そうとしているのだろうと感じました。
が、昨年、「動的平衡ダイアローグ」という本で福岡伸一さんとカズオ・イシグロさんの対談を読み、認識がやや変わりました。
対談中、カズオ・イシグロ氏は「記憶を凍結させる」ために小説を書いていると語っておられます。
よって、夕日で希望を表す云々はさて置いて、ただひたすら「ヨーロッパ勢力地図の大変革」のようなものを切り取りたかったのかなと感じております。

また読み返そうと思います。
ありがとうございました。
プロフィール

アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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