ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石 伊集院静
漱石は以前聞いた、或る話を思い出した。
「これは山に登る人から聞いたんだが、山登りというのは、その山が高ければ高いほど途中の道は下りが多いそうだ」
子規は漱石の顔をじっと見ていた。
(本文引用)
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そんなある日、ノボさんは一人の秀才と出会う。
名前は夏目金之助。ひょんな会話から馬が合うことを悟った二人は、後にかけがえのない友となっていく。
しかし結核や脚気で若者が死んでいく時代、いつの間にかノボさんの体も病魔に蝕まれ、ある日ついに大喀血をする。
そこで、ノボさんは言う。
俳人・正岡子規誕生の瞬間であった。
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この物語を読み、最も衝撃を受けたのは「死があまりに身近であること」と、それに連なる「鬼気迫る生き方」だ。
抗生物質もなく、大病にかかれば休養と栄養をとるしかないとされた時代。子規の周囲の若者たちは様々な病で人生の幕を閉じる。なかには世を儚みピストル自殺を遂げた者もいるが、多くは病で夭折している。
桶からあふれるほどの喀血、背中から漏れる膿、動かぬ足・・・。普通に考えれば、病を治すことに集中すべきだと思うだろう。
しかし、彼らは違う。どう考えても無理、といおうか無茶をしているのである。
それは何も彼らが「これぐらいなら大丈夫」と楽観視しているわけではなく(多少その様子もあるが)、確実に死を悟り、悟っているからこそ己の表現したいことを出し切らんと無茶をしてしまうのである。
私は、命を縮めてまで志を全うすることを讃えるつもりはない。命あっての物種であるし、特に親からすれば、どんな形であっても生きていてほしいと願うであろう。(作中の、子規逝去時における母・八重の姿が、これを物語っている)
しかし、ここに描かれる子規に、そんな声をかけるのは却って残酷だ。
瞳に写る風景を、感じる心を、一つでも多く書にしたためんとする子規。そんな彗星のごとき命のきらめきを、いったい誰が止められよう。
儚い人生だったかもしれないが、こんな生き方もある。子規の短くも情熱的な生き方は、新しい人生観・死生観というものを教えてくれているように思う。
またそれだけに、漱石との友情も涙なしでは読めない。「坊ちゃん」のように無鉄砲で、退路を断ってから進路を決めていく子規と、後々のことを考えて常に低リスク・合理的に生きる漱石。そんなタイプの違う二人だからこそ紡ぐことができた友情の糸は、切れることももつれることもなく、太く長く続いていく。
「小説家になる前」の漱石が、小説への夢を諦める子規を励まし、後に小説家になったように。
子規の命焦がす生き方、漱石との熱く静かな友情、それを囲む若者たちの清廉な志。それらの結晶は、読む者の涙となって眼前の景色を濡らしていく。
しかしその後に見えるのは、この表紙に描かれるような、晴れ渡る空である。
「これは山に登る人から聞いたんだが、山登りというのは、その山が高ければ高いほど途中の道は下りが多いそうだ」
子規は漱石の顔をじっと見ていた。
(本文引用)
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本を読みながら、これほど泣いて泣いて泣いて、そして励まされたのは何年ぶりだろう。
その秘密は、すでにこの表紙が教えてくれている。
青い空に白い雲、そして時に休みながら、眼下の風景を眺めながら、山を登り続ける人々。
そう、この小説に登場する人物は、いずれも錚々たる登山家たち-ピッケルの代わりに筆とペンを持ちながら命を削る、人生の登山家たちなのだ。
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時は明治中頃。主人公・ノボさんこと正岡升(のぼる)は、幼少時から学問殊に文才に優れ、東京大学予備門(一高)に合格。愛媛から、夢にまで見た東京に降り立つ。そこでノボさんは詩文や俳句の創作、編纂に没頭する。
その秘密は、すでにこの表紙が教えてくれている。
青い空に白い雲、そして時に休みながら、眼下の風景を眺めながら、山を登り続ける人々。
そう、この小説に登場する人物は、いずれも錚々たる登山家たち-ピッケルの代わりに筆とペンを持ちながら命を削る、人生の登山家たちなのだ。
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時は明治中頃。主人公・ノボさんこと正岡升(のぼる)は、幼少時から学問殊に文才に優れ、東京大学予備門(一高)に合格。愛媛から、夢にまで見た東京に降り立つ。そこでノボさんは詩文や俳句の創作、編纂に没頭する。
そんなある日、ノボさんは一人の秀才と出会う。
名前は夏目金之助。ひょんな会話から馬が合うことを悟った二人は、後にかけがえのない友となっていく。
しかし結核や脚気で若者が死んでいく時代、いつの間にかノボさんの体も病魔に蝕まれ、ある日ついに大喀血をする。
そこで、ノボさんは言う。
「時鳥が血を吐くまで鳴いて自分のことを皆に知らしめるように、あしも血を吐くがごとく何かをあらわしてやろうと決めた。それで子規じゃ」
俳人・正岡子規誕生の瞬間であった。
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この物語を読み、最も衝撃を受けたのは「死があまりに身近であること」と、それに連なる「鬼気迫る生き方」だ。
抗生物質もなく、大病にかかれば休養と栄養をとるしかないとされた時代。子規の周囲の若者たちは様々な病で人生の幕を閉じる。なかには世を儚みピストル自殺を遂げた者もいるが、多くは病で夭折している。
桶からあふれるほどの喀血、背中から漏れる膿、動かぬ足・・・。普通に考えれば、病を治すことに集中すべきだと思うだろう。
しかし、彼らは違う。どう考えても無理、といおうか無茶をしているのである。
それは何も彼らが「これぐらいなら大丈夫」と楽観視しているわけではなく(多少その様子もあるが)、確実に死を悟り、悟っているからこそ己の表現したいことを出し切らんと無茶をしてしまうのである。
私は、命を縮めてまで志を全うすることを讃えるつもりはない。命あっての物種であるし、特に親からすれば、どんな形であっても生きていてほしいと願うであろう。(作中の、子規逝去時における母・八重の姿が、これを物語っている)
しかし、ここに描かれる子規に、そんな声をかけるのは却って残酷だ。
瞳に写る風景を、感じる心を、一つでも多く書にしたためんとする子規。そんな彗星のごとき命のきらめきを、いったい誰が止められよう。
儚い人生だったかもしれないが、こんな生き方もある。子規の短くも情熱的な生き方は、新しい人生観・死生観というものを教えてくれているように思う。
またそれだけに、漱石との友情も涙なしでは読めない。「坊ちゃん」のように無鉄砲で、退路を断ってから進路を決めていく子規と、後々のことを考えて常に低リスク・合理的に生きる漱石。そんなタイプの違う二人だからこそ紡ぐことができた友情の糸は、切れることももつれることもなく、太く長く続いていく。
「小説家になる前」の漱石が、小説への夢を諦める子規を励まし、後に小説家になったように。
子規の命焦がす生き方、漱石との熱く静かな友情、それを囲む若者たちの清廉な志。それらの結晶は、読む者の涙となって眼前の景色を濡らしていく。
しかしその後に見えるのは、この表紙に描かれるような、晴れ渡る空である。
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子規の書いた漢詩や英文、死の直前の思いをつづった文書等も
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