月下上海 山口恵以子

 「正直に言おう。傷があるのはとても残念だ。それがあなたを醜くしているからじゃない。不幸にしているからだ」
(本文引用)
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 今年の「ジャケ買い」ベスト1、である。

 これは「見かけ倒しだった」という意味ではなく、「見た目で買ったが、中身はそれ以上に良かった」という意味だ。
 書店の平積みコーナー全体を包み込むように、優雅なオーラをプンプンと放っていた「月下上海」
 これは、ハイセンスな装丁と文章で読む者の心臓をつかみ、そしてザックリと切り刻んでいくような、悲哀あふれる作品であった。
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 時は、太平洋戦争さなかの昭和17年。
 財閥令嬢であり人気画家でもある八島多江子は、中日文化協会の招聘で個展を開くため、ひとり上海を訪れる。多江子はそこで、上海の案内役である日本人の青年・岸と出会う。


 上海語がうまく地理にも詳しい岸に、多江子は信頼をおくが、ある日岸の態度が一変する。
 文化協会の凡庸な嘱託員は仮の姿。岸は実は上海憲兵隊の大尉で、本名は槙という。
 憲兵として、槙は多江子にある任務を依頼する。
 それは、「重慶側工作員を監視せよ」というスパイ行為であった。

 槙は、半ば脅しながらその仕事を多江子に課したのだが、その脅しのもとは多江子にまつわる大スキャンダル事件-夫を取られ、その腹いせに自作自演の殺人未遂事件を起こした過去-である。
 その時の傷跡は、未だ多江子の首筋と心に深く残っている。

 はたして多江子は、スパイ行為を完遂するのか?過去の傷を癒すことはできるのか?槙の本当の狙いは何なのか?
 そして多江子が本当に愛し、多江子を本当に愛する男は誰なのか?
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 本書の中に、蒋介石による「怨に報ゆるに徳を以てす」という言葉がある。終戦後、中国に足止めをされていた日本人居留民たちを、速やかに日本に帰すよう取り計らった言葉である。

 そして読み終えた今、思う。作者がこの言葉を出してきたのは、単に時代背景を説明したかったからではない。この物語全体を貫くメッセージが「怨に報ゆるに徳を以てす」だからではないか。

 前夫への恨み、自分のしでかしたことへの後悔、命がけの恋そして別れの悲しみを、常に最高級のコートで隠して颯爽と歩く多江子。
 決して消えることのない傷を、ハイネックのスーツやセーターで隠しながら絵筆を握る多江子。
 そんな悲しくも美しい彼女を囲む男たち。

 彼らが描く人間模様は、現実にあったら反吐が出そうなほど憎悪にまみれたものだ。一生恨んでも恨んでも恨みつくせないほど、許しがたい裏切りの連続だ。
 しかしこの物語は、その耐え難いまでの汚さを越えたところで、澄み切った清らかな風景を見せてくれる。

 特にラスト、散々自分を利用し凌辱してきた槙が、多江子に宛てた手紙には思わずポロポロと涙がこぼれた。もちろん、その手紙のもととなった多江子の行動にも。
 読み終えて、「怨に報ゆるに徳を以てす」とはこういうことか、と蒋介石の言葉を何度も噛みしめた。

 ファッション雑誌から抜け出たような多江子の服装、華やかな財閥一族や華族の生活など女性にはたまらない描写が満載だが、それ以上に男女を問わない「人間の得も言われぬ奥深さ」が、洗練されたなめらかな筆致で色濃く描かれている。
 これはなるほど、これだけ装丁にも力が込められるわけだ、と製作者たちの気持ちに思いを馳せた。

 第20回松本清張賞受賞作品。

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Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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