「復興の精神」

 東日本大震災から4ヶ月近くが経った。
 この間、私は何をしていたかというと、こと震災関連に限っては何もしていない。

 せいぜい震災直後、計画停電の影響で、会社を早退して子供を早く迎えに行ったり、保育園を通じて支援物資を送ったり・・・。
 そんな程度で、あとはひたすら日常生活を送り続けている。
 私の周りでも、生活スタイルはほぼ変わることなく動いている。

 しかし震災前と震災後とでは、確実に意識の底の何かは変わっている。
 誰もが常に「私には何ができるのだろう」と己に問い続けている。
 「何かできることはないか」と問い続けている。

 だが、何しろ事が重大すぎて、アワアワしているうちに時はビュンビュン加速し、気がつけば100日あまりが過ぎてしまった。
 手を出そうにも声を出そうにも、何をしても何を言っても、不謹慎な気がしてしまう。
 で、また立ち尽くす。

 そんなときに手にとったこの「復興の精神」



 これを読み、
「『自分には何もできない』と思い込むことはない。
 誰でも『何かはできる』、しかし『無理に大きな行動を起こす必要はない』」

 と、少し気が楽になり、またその一方で、この非常事態を乗り越えてやる!という気持ちが奮い立った。


 本書は、養老猛司、茂木健一郎、橋本治、曽野綾子、阿川弘之等9人が、震災以降の我々の心の持ち方を説いたものである。

 全編を通じて私が強く感じたのは、「自分の生活を、自分の思いどおりにしようとするな」ということだ。

 たとえば今、日本人は世界で賞賛すべき民族として注目されているらしい。
 それは、このような災害に遭っても強奪等の犯罪や便乗値上げなどがほとんどなく、お互いを尊重しあい助け合って過ごしているためだという。
 これだけの災害なのだから、人々の苛立ちもないはずはなく、また買い占めなどもあったわけだから、どこまで許容範囲に含めての賞賛なのかわからないが、たしかに諸外国と比べるとかなり冷静で穏やかなのであろう。

 それはやはり、この本にも書かれているが、日本人がもともと「天災、特に地震ばっかりは、自分の思い通りにならず必ずやってくる」と思っているからではないか。

 茂木健一郎氏は、被災地以外の人々に対して

「私たちは、ただ、『執行猶予』をされているだけのこと」

という。

 また養老猛司氏は、日本ほど「定期的に『ご破算』を経験している国は実はそんなにない」と言い、「木と紙で出来たような家に長年住んできたことも、一つの知恵かもしれません」と説く。

 私たちは、地震という弾丸をつめたロシアンルーレットを毎日行っているようなものかもしれない。
 日本に住んでいるかぎり、いやこの世に生きているかぎりは、そのルーレットの渦中に置かれ続けるのだ。
 地震は必ず起こる。そして地震に対しては無力である、どうしようもない、という気持ちを、我々は先祖代々持ちつづけてきた。そしてそれが、今回の被災者の方々の粛々とした態度に結びついているのだろう。(悲しいことかもしれないが・・・)

 しかし逆に、自分の思いどおりにしようとしたために、人々を混乱させ、被害を拡大させている側面もある。

 まず、やはり電気だ。

 今回のことで、私自身もいかに電気に頼り、無駄に消費をしてきたかを痛感した。
 計画停電時に信号が消えたのにはさすがに閉口したが、オフィスの蛍光灯を何本か抜いたところで、意外と、というか全く困らないことに気づいた。
 そう考えると、周囲をグルッと見渡しただけで「あれも要らない」「これも要らない」となり、ひとつひとつは小さくとも、これが何千万人分も集まると結構な節電になるだろう。
 (ちなみに先日、近所の美容院に行ったところ、常時タオルを温めておく「ホットタオル」をやめたのだそうだ。そのつどお湯で温めることにしたのだとか。・・・なるほど、いろいろあるものだ。)

 禅僧である南直哉氏は、こう語る。
 我々がずっと「進歩」「発展」「成長」と呼んできたものは、

「要するに、できるだけ『すべてを思いどおりにしよう』という意志を、金と道具、つまり資本と科学技術がひたすら追いかけていくことである」

 そして

「我々は、『思いどおりにしよう』の意志が枠組みを決めている社会を選択してきたのである。このことを自覚して、すでにそれが構造的で宿命的な欠陥を露呈していることを直視すべきなのだ」

と。

 非常に耳の痛い話である。

 先ほども書いたが、自分の行動ひとつとっても、あまりに思いどおりにしようとしすぎていた。
 
 思いどおりの時間に目的地に着けるよう電車に乗り、思いどおりの気温に調節したオフィスで仕事をし、家に帰れば好きな時に温かいお茶が飲めて、好きなときに温かいご飯をよそうことができ、リアルタイムで観られないテレビ番組をビデオに録り・・・など、どうでもいいことまで自分の思いどおりにしようとしていたことに、このたびの震災で改めて、といおうか、不覚にも初めて気づかされた。

 また買い占めも同様である。
 
 今まで簡単に「自分の思いどおり」に手に入っていた食料や日用品が、「思いどおりに」手に入らなくなるのではないかという不安から、朝からスーパーには人が押し寄せた。
そしてトイレットペーパーなどならまだしも、足の早いものまで大量に買い占めて腐らせる・・・といった、通常では考えられない混乱状態であった。

 そして相次ぐ風評被害やチェーンメール。これらも、何としてでも自分の身を守りたい、自分の生活を、今なお「思いどおりにしたい」という足掻きから生じた現象といえるだろう。

 これは、我々が日ごろ当たり前のように享受していたモノが、実は当たり前ではなく、いつ壊れてもおかしくない非常に脆い土台のうえに成り立っていたことに、人々がようやく気づいた、気づいてしまった、ということだ。

 歴史学者・山内昌之氏は、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの言葉「必要なことのみをせよ。また社会的生活を営むべく生まれついた者の理性が要求するところのものをすべてその要求するがままになせ」を引用し、この震災を経て日本人は

「非日常的な何かをしようとするときや、何かの選択に迷うときに、『これは不必要なことの一つではなかろうか』と静かに自問すべきかもしれない」

と説く。

 そう、「私には何ができるのだろう」、「何かできることはないか」という問いの最初の答は、まず「自分の生活が便利すぎたこと、思いどおりに行き過ぎたと自覚すること。そしてそんな生活をじっくりと見直すこと」なのだ。
 

「今回の震災が、私たちが変わるきっかけにならないとしたら、他の何がきっかけになるというのだろう」(茂木健一郎)

 払った犠牲はあまりにも大きすぎたが、自らの生活に対する意識を変えることが、微力ながらそれに報いることになれば、と思う。
 そして意識が変わった時点から、ようやく真の復興に向けたスタート地点に立てるのではないか。そんな気がする。

 そして養老猛司氏はいう。

「元に戻そう、復興しようという人には、『こんちくしょう。負けるもんか』という気持ちがあるはずです。(中略)『こんちくしょう』は、復興において絶対に必要な大切な要素になるはずです」


 そうだ、私も心の中で叫び続けよう。自然にとっては痛くも痒くもないだろうが、「こんちくしょう」、と。

 地震め、津波め、「こんちくしょう」と。
 そして、非力な自分に「こんちくしょう」と。
 生活を何もかも思いどおりにしようとしてきた自分に「こんちくしょう」と。

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アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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