「草原の椅子」
テレビを見ていると、時々こんな思いにかられる。
「テレビに出ている人が羨ましい」
それは、芸能人に会いたいとか、ましてやなりたいなどといった意味ではない。
使命を果たそうとしている姿が、羨ましいのだ。
テレビに出てくる人たちは、その多くが天職に出会った人たちだ。
俳優、歌手、スポーツ選手、芸術家、実業家・・・。
もちろんテレビに出るような職業でなくても、自分の仕事に使命感をもち、命がけで取り組んでいる人がたくさんいることはわかっている。
が、とりあえずテレビに出ている人を見ると、
「ああ、この人はこの世に生まれ、使命を与えられ、それを全うしようとしているんだなあ」
と羨ましくなってしまうのだ。
「私の使命って何だろう?」・・・
それを明確にできない自分にとって、まさにこの本を読むことが使命のひとつだったのではないか、と思わせてくれる本に出会った。
宮本輝著「草原の椅子」である。
大学院を出て光工学の技術者として大手カメラメーカーに勤める遠間憲太郎は、大阪赴任中にカメラ量販店会社社長・富樫重蔵と知り合う。
憲太郎は、「社員が働いていると思うと申し訳なくてゴルフにも行けない」という富樫の人柄に惹かれ懇意にしてもらう。
そんなある日、富樫が、過去にたった一度だけ関係をもってしまった女性に灯油を浴びせかけられるという事件が起こる。
女性にライターを突きつけられた富樫は、命からがら憲太郎に助けをもとめる。静電気でも起きれば二人とも一巻の終わりの救出劇だ。
散々な一日だったが、それを機に憲太郎と富樫は親友の契りを交わす。
富樫はいう。
浮気など、それまでもそれからも一度もなかったのに、「魔がさした」ばかりにこんな目にあった。
なんでこんな魔がさしたのか。自分の中にポッカリ空いている穴のせいだろうか。
中学卒業後、がむしゃらに働き、身一つで小さなカメラ店を大手チェーンにまで仕立てあげたにも関わらず、自分の中に何か穴があるような気がするという。
そしてその穴は、女性問題が解決しても、妻と和解しても埋まらない。
実は、その穴とは自分自身なのではないか、と。
それは憲太郎にも思い当たるところがあった。
妻と長年そりが合わず、子供2人が大学に入ったのを機に離婚した。自分はいったい何をしてきたのだろう。何が出来たのだろう。
憲太郎には、時々思い出す言葉があった。
離婚直後、憲太郎は心の休養にひとり、タクラマカン砂漠を経てフンザを訪れる旅に出た。最後の桃源郷といわれるこの地で、彼はある老人にこう言われたのだ。
「あなたの瞳のなかには、3つの青い星がある。ひとつは潔癖であり、もうひとつは淫蕩であり、さらにもうひとつは使命である」(本文引用)
その言葉を通して、二人はそれぞれ己に問いかける。
「俺たちの使命って何だろう。俺たちは、何のために生まれてきたんだろう」
そして二人は、ともに旅に出る。
週末に車でグルッとひとまわりする程度の小旅行だが、彼らにとってそれは、自分の人生を見つめる大冒険であった。
そんな二人の心の中には、あるひとつの風景が浮かんでいた。
草原に椅子がひとつ立っている映像だ。
その椅子とは、富樫の父親が作った椅子。
大工だった父親は、仕事中のケガで立つことが困難になり、大工の仕事を諦めざるを得なくなる。
その父親は現在、かつての腕を活かして、あるものを作っている。
体の不自由な人のためのオーダーメイドの椅子。
足の長さが左右で違ったり、背もたれが曲がったりした椅子たち。
一見不恰好なこの椅子が、障害や病気などにより体が曲がってしまった人にとっては最高に心地が良いものなのである。
その椅子こそが、人間の使命というものを表している・・・二人はそう思い、使命の象徴であるその椅子を、自分のなかに見つけようとする。
そしていつか自分にしか作れない椅子を、わが心の草原に立たせよう・・・。
その夢に向かった人生旅行の間に、彼らの前にはさまざまな人が通り過ぎていく。
高速道路で車の前に飛び出す性癖のある女子大生。
人間の幸せな瞬間を追いつづける、写真家の卵の青年。
憲太郎が一目ぼれする、骨董屋の女性店主・貴志子。・・・
そして、彼らの旅に多大な影響を与える5歳の少年、圭輔。
圭輔は、実の母親による暴力とネグレクトの末、すっかり人間に心を閉ざしてしまった。
しかし、なぜか憲太郎の娘にだけは懐くことがきっかけで、憲太郎と富樫が愛情を持って懸命に面倒を見る。そして圭輔が巣立つまで、守り抜こうと決める。
ある日、富樫は圭輔を知り合いの家に連れて行く。
そこには小学生を頭とした3人兄弟がおり、その子たちと遊ばせたいという富樫の目論見があった。
心配する憲太郎をよそに、圭輔は、小さな一歩を必死に踏み出そうとする。
あの子達のなかに入りたい、でも声が出ない、足が出ない。でも一緒に遊びたい。
手を出そうか、出すまいか。富樫は圭輔をかわいそうに思い声をかけようとするが、憲太郎はふと口に出した。
「ほんとに行きたかったら、誰の助けがなくても行くさ。何を捨てても行くさ」(本文引用)
その瞬間、圭輔は子供達のもとに走った。
それと同時に、憲太郎の頭にも光が走った。
行こう。再びフンザへ。
立とう。生きて帰らざる海、タクラマカン砂漠に。
富樫を伴い、憲太郎はついに大きな旅に出る決心をする。
休暇が取れないかもしれない。でも、そのときはそのときだ。
「ほんとに行きたかったら、誰の助けがなくても行くさ。何を捨てても行くさ」
何もない世界に行き、自分を見つめたい。自分の使命を見つめたい。
空っぽの世界に行き、自分が空っぽになれば、何かが見えてくるかもしれない。
そして憲太郎は、「憧れの君」である貴志子も、この異国の旅へと誘う。
思わず口について出てしまったのだが、共に自分を見つめなおしてくれそうな人、と憲太郎は直感したのかもしれない。
邪な心などなく、気がつけば声をかけていた。
返事は意外にも“YES”。
知り合って間もない男性たちと旅行に出ようなんて・・・と自分の気持ちにいささか驚きながらも快く承諾する貴志子。
ここにもまた、自分が生きる意味を見つけようとする一人の人間がいたのである。
結局、メンバーは憲太郎、富樫、貴志子、そして幼い圭輔の4人に。
老若男女を飛び越えて、彼らは旅立った。
自分の中の草原を見つめに、自分だけの椅子を探しに。
いざ桃源郷と死の砂漠へ!
果たして彼らはそこで、自分の使命を見つけられるのかー。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この本を読みながら、私は赤面した。
どうしようもなく、自分が恥ずかしくなったのだ。
憲太郎、富樫、貴志子・・・彼らの思いやりとウィットに満ちたやり取りを楽しみながらも、私は泣きたくなった。
これほどまでに、私利私欲を捨てて他人のために戦っている人たちですら、己の使命が見えないというのに、何もしていない私が見つけられるはずはないではないか、と。
テレビに出てくるような一流の人ばかりを見て、「この人たちには使命がある。私にはない」など、「馬鹿も休み休み言え」と自分自身の頬をひっぱたいてやりたい気持ちだ。
目の前に、こんなにも使命が広がっているではないか。
守るべき家族、仕事、友達、そして街のあちこちにも・・・。
今、目の前にある「自分に求められていること」に真摯な姿勢で取り組むことが、今の私の使命ではないか。
憲太郎も富樫も、己のやるべきことを果たし、そのうえで他人を思いやり、行動し、それでもなお自分の生きる意味を探ろうとしている。
そんな彼らの前で、私は「私も使命を探っているんです」などといえるだろうか。
私は彼らの足元にも及ばない。彼らの旅に同行するチケットを手に入れる資格すらない。
広大な砂漠で、彼らはきっと自分の椅子を作り上げ、それを心に携えて帰国してくるだろう。
そしてその椅子を少しずつ直しながら、生き続けていくだろう。
私も彼らに追いつきたい。
今この瞬間から、私は椅子を作り続けよう。身の丈に合った椅子を作り続けよう。
どんなに小さくてもいいから。
「テレビに出ている人が羨ましい」
それは、芸能人に会いたいとか、ましてやなりたいなどといった意味ではない。
使命を果たそうとしている姿が、羨ましいのだ。
テレビに出てくる人たちは、その多くが天職に出会った人たちだ。
俳優、歌手、スポーツ選手、芸術家、実業家・・・。
もちろんテレビに出るような職業でなくても、自分の仕事に使命感をもち、命がけで取り組んでいる人がたくさんいることはわかっている。
が、とりあえずテレビに出ている人を見ると、
「ああ、この人はこの世に生まれ、使命を与えられ、それを全うしようとしているんだなあ」
と羨ましくなってしまうのだ。
「私の使命って何だろう?」・・・
それを明確にできない自分にとって、まさにこの本を読むことが使命のひとつだったのではないか、と思わせてくれる本に出会った。
宮本輝著「草原の椅子」である。
大学院を出て光工学の技術者として大手カメラメーカーに勤める遠間憲太郎は、大阪赴任中にカメラ量販店会社社長・富樫重蔵と知り合う。
憲太郎は、「社員が働いていると思うと申し訳なくてゴルフにも行けない」という富樫の人柄に惹かれ懇意にしてもらう。
そんなある日、富樫が、過去にたった一度だけ関係をもってしまった女性に灯油を浴びせかけられるという事件が起こる。
女性にライターを突きつけられた富樫は、命からがら憲太郎に助けをもとめる。静電気でも起きれば二人とも一巻の終わりの救出劇だ。
散々な一日だったが、それを機に憲太郎と富樫は親友の契りを交わす。
富樫はいう。
浮気など、それまでもそれからも一度もなかったのに、「魔がさした」ばかりにこんな目にあった。
なんでこんな魔がさしたのか。自分の中にポッカリ空いている穴のせいだろうか。
中学卒業後、がむしゃらに働き、身一つで小さなカメラ店を大手チェーンにまで仕立てあげたにも関わらず、自分の中に何か穴があるような気がするという。
そしてその穴は、女性問題が解決しても、妻と和解しても埋まらない。
実は、その穴とは自分自身なのではないか、と。
それは憲太郎にも思い当たるところがあった。
妻と長年そりが合わず、子供2人が大学に入ったのを機に離婚した。自分はいったい何をしてきたのだろう。何が出来たのだろう。
憲太郎には、時々思い出す言葉があった。
離婚直後、憲太郎は心の休養にひとり、タクラマカン砂漠を経てフンザを訪れる旅に出た。最後の桃源郷といわれるこの地で、彼はある老人にこう言われたのだ。
「あなたの瞳のなかには、3つの青い星がある。ひとつは潔癖であり、もうひとつは淫蕩であり、さらにもうひとつは使命である」(本文引用)
その言葉を通して、二人はそれぞれ己に問いかける。
「俺たちの使命って何だろう。俺たちは、何のために生まれてきたんだろう」
そして二人は、ともに旅に出る。
週末に車でグルッとひとまわりする程度の小旅行だが、彼らにとってそれは、自分の人生を見つめる大冒険であった。
そんな二人の心の中には、あるひとつの風景が浮かんでいた。
草原に椅子がひとつ立っている映像だ。
その椅子とは、富樫の父親が作った椅子。
大工だった父親は、仕事中のケガで立つことが困難になり、大工の仕事を諦めざるを得なくなる。
その父親は現在、かつての腕を活かして、あるものを作っている。
体の不自由な人のためのオーダーメイドの椅子。
足の長さが左右で違ったり、背もたれが曲がったりした椅子たち。
一見不恰好なこの椅子が、障害や病気などにより体が曲がってしまった人にとっては最高に心地が良いものなのである。
その椅子こそが、人間の使命というものを表している・・・二人はそう思い、使命の象徴であるその椅子を、自分のなかに見つけようとする。
そしていつか自分にしか作れない椅子を、わが心の草原に立たせよう・・・。
その夢に向かった人生旅行の間に、彼らの前にはさまざまな人が通り過ぎていく。
高速道路で車の前に飛び出す性癖のある女子大生。
人間の幸せな瞬間を追いつづける、写真家の卵の青年。
憲太郎が一目ぼれする、骨董屋の女性店主・貴志子。・・・
そして、彼らの旅に多大な影響を与える5歳の少年、圭輔。
圭輔は、実の母親による暴力とネグレクトの末、すっかり人間に心を閉ざしてしまった。
しかし、なぜか憲太郎の娘にだけは懐くことがきっかけで、憲太郎と富樫が愛情を持って懸命に面倒を見る。そして圭輔が巣立つまで、守り抜こうと決める。
ある日、富樫は圭輔を知り合いの家に連れて行く。
そこには小学生を頭とした3人兄弟がおり、その子たちと遊ばせたいという富樫の目論見があった。
心配する憲太郎をよそに、圭輔は、小さな一歩を必死に踏み出そうとする。
あの子達のなかに入りたい、でも声が出ない、足が出ない。でも一緒に遊びたい。
手を出そうか、出すまいか。富樫は圭輔をかわいそうに思い声をかけようとするが、憲太郎はふと口に出した。
「ほんとに行きたかったら、誰の助けがなくても行くさ。何を捨てても行くさ」(本文引用)
その瞬間、圭輔は子供達のもとに走った。
それと同時に、憲太郎の頭にも光が走った。
行こう。再びフンザへ。
立とう。生きて帰らざる海、タクラマカン砂漠に。
富樫を伴い、憲太郎はついに大きな旅に出る決心をする。
休暇が取れないかもしれない。でも、そのときはそのときだ。
「ほんとに行きたかったら、誰の助けがなくても行くさ。何を捨てても行くさ」
何もない世界に行き、自分を見つめたい。自分の使命を見つめたい。
空っぽの世界に行き、自分が空っぽになれば、何かが見えてくるかもしれない。
そして憲太郎は、「憧れの君」である貴志子も、この異国の旅へと誘う。
思わず口について出てしまったのだが、共に自分を見つめなおしてくれそうな人、と憲太郎は直感したのかもしれない。
邪な心などなく、気がつけば声をかけていた。
返事は意外にも“YES”。
知り合って間もない男性たちと旅行に出ようなんて・・・と自分の気持ちにいささか驚きながらも快く承諾する貴志子。
ここにもまた、自分が生きる意味を見つけようとする一人の人間がいたのである。
結局、メンバーは憲太郎、富樫、貴志子、そして幼い圭輔の4人に。
老若男女を飛び越えて、彼らは旅立った。
自分の中の草原を見つめに、自分だけの椅子を探しに。
いざ桃源郷と死の砂漠へ!
果たして彼らはそこで、自分の使命を見つけられるのかー。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この本を読みながら、私は赤面した。
どうしようもなく、自分が恥ずかしくなったのだ。
憲太郎、富樫、貴志子・・・彼らの思いやりとウィットに満ちたやり取りを楽しみながらも、私は泣きたくなった。
これほどまでに、私利私欲を捨てて他人のために戦っている人たちですら、己の使命が見えないというのに、何もしていない私が見つけられるはずはないではないか、と。
テレビに出てくるような一流の人ばかりを見て、「この人たちには使命がある。私にはない」など、「馬鹿も休み休み言え」と自分自身の頬をひっぱたいてやりたい気持ちだ。
目の前に、こんなにも使命が広がっているではないか。
守るべき家族、仕事、友達、そして街のあちこちにも・・・。
今、目の前にある「自分に求められていること」に真摯な姿勢で取り組むことが、今の私の使命ではないか。
憲太郎も富樫も、己のやるべきことを果たし、そのうえで他人を思いやり、行動し、それでもなお自分の生きる意味を探ろうとしている。
そんな彼らの前で、私は「私も使命を探っているんです」などといえるだろうか。
私は彼らの足元にも及ばない。彼らの旅に同行するチケットを手に入れる資格すらない。
広大な砂漠で、彼らはきっと自分の椅子を作り上げ、それを心に携えて帰国してくるだろう。
そしてその椅子を少しずつ直しながら、生き続けていくだろう。
私も彼らに追いつきたい。
今この瞬間から、私は椅子を作り続けよう。身の丈に合った椅子を作り続けよう。
どんなに小さくてもいいから。
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