「食べることと出すこと」感想。潰瘍性大腸炎を知りたく購入。得るものは途轍もなく大きかった。

「何か事情があるのかもしれない」「本当はそういう人ではないかもしれない」という保留付きで、人を見たいものだと思う。
 そのわずかなためらいがあるだけでも、大変なちがいなのだ。

(本文引用)
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 安倍首相が持病の悪化で辞任した。
 支持云々に関係なく、純粋に「体調が悪いなか、大変だっただろうなぁ・・・。本当にお疲れさまでした」としみじみ。
 
 首相の件を機に、「潰瘍性大腸炎のつらさ」を知りたくなった、いや、知らねばならない、と思った。

 そうしないと今後、外から見えにくい病やつらさ、苦しみ、悩みを抱えている人を、無意識に傷つけてしまうだろうから。

 ひとまず「潰瘍性大腸炎」という病から、「病を抱えている人の心情を、極限まで想像する訓練」をしないと、人として大変なことになる・・・と怖れを抱いたのだ。

 そこで読んだのが「食べることと出すこと」。
 
 ・・・衝撃だった。
 私は甘かった、あまりにも甘かった。


 「病を抱えている人の心情を、極限まで想像したい」だと?
 そんなことを考えていた自分を、ひっぱたきたい気分になった。

 そして「そんなことを考えていた自分」に、こう叫びたい。

 「病を抱えている人の気持ちを想像する」なんて無理なんだよ!
 「病を抱えている人の気持ちを想像することなど、永遠に想像できない」と思うべきなんだよ!


 潰瘍性大腸炎のことを知りたくて読んだ、「食べることと出すこと」。
 得られるものは、潰瘍性大腸炎の知識だけではない。到底ない。

 「人間、他者のつらさ・苦しい・悩みを想像することなどできない、ということを想像せよ」という、途轍もなく大きなことを教えてくれる名著だった。
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■「食べることと出すこと」内容



 著者・頭木弘樹氏は20歳の時、潰瘍性大腸炎を発症。

 下痢が2~3ヶ月続き、ついに血便が。
 「明らかにおかしい」と思いつつも、病名を告げられることを恐れ、病院に行くのを避けていた。
 
 そのうち出血も下痢も止まり、安心したのもつかの間。
 便器が血で染まり、悶絶するほどの腹痛に襲われ、ついに病院へ。
 
 「本当の症状」を言えなかったこともあり、適切な治療を受けられず、症状が悪化。
 ついに症状をごまかしきれなくなり、受診すると・・・。

 「うわっ!」と医師が叫んだ。


 著者はすぐさま入院。
 大腸を休めるため、絶食と点滴の日々に。

 以後、「寛解」と「再燃」を繰り返しながら、「食べることと出すこと」に慎重に向き合う生活を送る。
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■「食べることと出すこと」感想



 さて本書の内容を読み、「自分は胃腸が丈夫だから、読む必要ない」と思っただろうか?
 他人事だと思っただろうか?

 はっきり言おう。
 本書は誰にとっても、断じて「他人事ではない」。

 生きている人全てが「自分のこととして読める本」だ。

 なぜなら本書がつづる最大のテーマは、「潰瘍性大腸炎の症状」ではない。
 
 「コミュニケーションにおける、人間の大問題」を訴えているからだ。

 たとえば著者は、こんな経験をつづる。

 仕事の打ち合わせで、ある人と会ったという。
 打合せ場所は、とある飲食店。
 相手は「いい店でしょ」と言う。

 しかし提供された料理を、著者は病気で食べられない。
 相手は著者の病気を知っているため、一度は「そうですか」と引っ込める。
 にも関わらず、しつこく「少しくらいなら」と勧めてくる。
 「病気で無理で」と断っても断っても、言ってくる。

 そのうち周囲の人まで「これ、おいしいですよ」「ちょっとだけなら」と言ってくる。
 
 そんな人々・状況に対して、著者は言う。 

 間を取り持つというよりは、かたくなに食べない人間にいら立っているのだ。
 私がその料理をほんの少しかじったからといって、それで他の人たちにとって、何かいいことがあるわけではない。私のお腹が少しダメージを受けるだけのことだ。
 しかし、みんなしてそれを求めるのである。圧力をかけてきて、非難する。 
 じつに不思議なものだ。


 その後、相手は著者に「ぜひ仕事を頼みたい」と言い、そのたびに「ちょっとだけでも」と食べ物を勧める。
 しかし著者は病気で食べられない。
 そのうち、仕事の話が来ることもなくなったという。

 このエピソードにドキッと来る人は、多いのではないだろうか。

 今どき「俺の酒が飲めねえって言うのか」と迫る人も、少ないかもしれない。
 
 しかし、ついこんなことを言ってしまっている人、多いのでは。
 
 「これおいしいのに」「これが食べられないなんてかわいそう」「少しぐらいなら、いいんじゃない?」「好き嫌いが激しくて、わがまま」etc.

 同じものを食べないと、人は途端に相手を否定する。
 しかしよく考えれば、「食べられない人を否定する」というのは、非常におかしな話。

 「食」は健康と直接つながっている。
 よって「食べられない事情」は、誰にあってもおかしくない。
 また「食べられない事情」というのは、たいてい深刻なもの。

 誰にでも「食べられない事情」があっても不思議ではないし、「食べられない事情」は生命にかかわることかもしれないのに、「食べられないことを否定する」というのは、ゾッとするほど非道な話である。

 本書をきっかけに、いま一度「食べ物・飲み物を無理やり勧める」という行為を考え直すべきであろう。

 さらに本書を読むと、こんな言葉が浮かんでくる。

 「無知の知」ならぬ「無想像の想像」。

 本書を読んでいると、かくも人間とは「他者の気持ちを想像できないものか」と驚かされる。

 誰もが、相手の気持ちを慮ろうとはしている。
 相手の状況を想像しようと努力はしている。

 しかし本書のエピソードを読むと、ビックリするほど「想像できない」ことがよくわかる。

 「相手の立場・状況・悩み・つらさ」を想像してるつもりが、気がつけば「自分の思い込み」にとらわれている。

 たとえば著者は入院中、「お見舞いに何が欲しいか」と聞かれ、「クレ556」と答える。
 点滴スタンドの滑りを良くするために、本気でクレ556を頼むのに、誰も本気で受け止めてくれず、切り花を持ってくる。
 

 お見舞いに来る人というのは、お見舞いらしいものを持ってきたいようで、こちらの要望は聞いてくれない。

 

 お見舞いの品というのは、こんなにままならないものなのかと思った。
 お見舞いの品というのは、こっちのために持って来てくれるのだから、こっちのものだと思っていたのが、そうではなく、あくまで持ってくる人のものであるようだ。


 なかにはきちんと要望を聞き、クレ556を買ってきてくれた人もいた。
 しかしそういう人は貴重だという。

 人間、相手の気持ちを想像しているつもりでいて、たいてい「自分都合」「自分の思い込み」にとらわれ、全く「相手の気持ち」など想像できていないのである。

 だから私は思う。
 人間には「無想像の想像」が必要なのだ、と。
 
 冒頭で、自分をひっぱたいて「人の気持ちなど想像できないということを、想像すべきと言ってやりたい!」と書いたのは、そういう理由である。

 潰瘍性大腸炎云々に限らず、「人と人がつきあうって、どういうことだろう?」「コミュニケーションって何だろう?」「共に生きるって何だろう?」と思ったら、ぜひ本書を手に取ってみてほしい。

 今後、さまざまな人と出会い、つきあううえで、本書は間違いなく財産になるはず。

 どこかの誰かが「あの人だけは、本当に自分のことをわかってくれる」と、全幅の信頼をおいてくれるだろう。

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アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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