「食べることと出すこと」感想。潰瘍性大腸炎を知りたく購入。得るものは途轍もなく大きかった。
「何か事情があるのかもしれない」「本当はそういう人ではないかもしれない」という保留付きで、人を見たいものだと思う。
そのわずかなためらいがあるだけでも、大変なちがいなのだ。
(本文引用)
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「病を抱えている人の心情を、極限まで想像したい」だと?
そんなことを考えていた自分を、ひっぱたきたい気分になった。
そして「そんなことを考えていた自分」に、こう叫びたい。
「病を抱えている人の気持ちを想像する」なんて無理なんだよ!
「病を抱えている人の気持ちを想像することなど、永遠に想像できない」と思うべきなんだよ!
潰瘍性大腸炎のことを知りたくて読んだ、「食べることと出すこと」。
得られるものは、潰瘍性大腸炎の知識だけではない。到底ない。
「人間、他者のつらさ・苦しい・悩みを想像することなどできない、ということを想像せよ」という、途轍もなく大きなことを教えてくれる名著だった。
そのわずかなためらいがあるだけでも、大変なちがいなのだ。
(本文引用)
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安倍首相が持病の悪化で辞任した。
支持云々に関係なく、純粋に「体調が悪いなか、大変だっただろうなぁ・・・。本当にお疲れさまでした」としみじみ。
首相の件を機に、「潰瘍性大腸炎のつらさ」を知りたくなった、いや、知らねばならない、と思った。
そうしないと今後、外から見えにくい病やつらさ、苦しみ、悩みを抱えている人を、無意識に傷つけてしまうだろうから。
ひとまず「潰瘍性大腸炎」という病から、「病を抱えている人の心情を、極限まで想像する訓練」をしないと、人として大変なことになる・・・と怖れを抱いたのだ。
そこで読んだのが「食べることと出すこと」。
・・・衝撃だった。
私は甘かった、あまりにも甘かった。
支持云々に関係なく、純粋に「体調が悪いなか、大変だっただろうなぁ・・・。本当にお疲れさまでした」としみじみ。
首相の件を機に、「潰瘍性大腸炎のつらさ」を知りたくなった、いや、知らねばならない、と思った。
そうしないと今後、外から見えにくい病やつらさ、苦しみ、悩みを抱えている人を、無意識に傷つけてしまうだろうから。
ひとまず「潰瘍性大腸炎」という病から、「病を抱えている人の心情を、極限まで想像する訓練」をしないと、人として大変なことになる・・・と怖れを抱いたのだ。
そこで読んだのが「食べることと出すこと」。
・・・衝撃だった。
私は甘かった、あまりにも甘かった。
「病を抱えている人の心情を、極限まで想像したい」だと?
そんなことを考えていた自分を、ひっぱたきたい気分になった。
そして「そんなことを考えていた自分」に、こう叫びたい。
「病を抱えている人の気持ちを想像する」なんて無理なんだよ!
「病を抱えている人の気持ちを想像することなど、永遠に想像できない」と思うべきなんだよ!
潰瘍性大腸炎のことを知りたくて読んだ、「食べることと出すこと」。
得られるものは、潰瘍性大腸炎の知識だけではない。到底ない。
「人間、他者のつらさ・苦しい・悩みを想像することなどできない、ということを想像せよ」という、途轍もなく大きなことを教えてくれる名著だった。
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著者・頭木弘樹氏は20歳の時、潰瘍性大腸炎を発症。
下痢が2~3ヶ月続き、ついに血便が。
「明らかにおかしい」と思いつつも、病名を告げられることを恐れ、病院に行くのを避けていた。
そのうち出血も下痢も止まり、安心したのもつかの間。
便器が血で染まり、悶絶するほどの腹痛に襲われ、ついに病院へ。
「本当の症状」を言えなかったこともあり、適切な治療を受けられず、症状が悪化。
ついに症状をごまかしきれなくなり、受診すると・・・。
著者はすぐさま入院。
大腸を休めるため、絶食と点滴の日々に。
以後、「寛解」と「再燃」を繰り返しながら、「食べることと出すこと」に慎重に向き合う生活を送る。
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さて本書の内容を読み、「自分は胃腸が丈夫だから、読む必要ない」と思っただろうか?
他人事だと思っただろうか?
はっきり言おう。
本書は誰にとっても、断じて「他人事ではない」。
生きている人全てが「自分のこととして読める本」だ。
なぜなら本書がつづる最大のテーマは、「潰瘍性大腸炎の症状」ではない。
「コミュニケーションにおける、人間の大問題」を訴えているからだ。
たとえば著者は、こんな経験をつづる。
仕事の打ち合わせで、ある人と会ったという。
打合せ場所は、とある飲食店。
相手は「いい店でしょ」と言う。
しかし提供された料理を、著者は病気で食べられない。
相手は著者の病気を知っているため、一度は「そうですか」と引っ込める。
にも関わらず、しつこく「少しくらいなら」と勧めてくる。
「病気で無理で」と断っても断っても、言ってくる。
そのうち周囲の人まで「これ、おいしいですよ」「ちょっとだけなら」と言ってくる。
そんな人々・状況に対して、著者は言う。
その後、相手は著者に「ぜひ仕事を頼みたい」と言い、そのたびに「ちょっとだけでも」と食べ物を勧める。
しかし著者は病気で食べられない。
そのうち、仕事の話が来ることもなくなったという。
このエピソードにドキッと来る人は、多いのではないだろうか。
今どき「俺の酒が飲めねえって言うのか」と迫る人も、少ないかもしれない。
しかし、ついこんなことを言ってしまっている人、多いのでは。
「これおいしいのに」「これが食べられないなんてかわいそう」「少しぐらいなら、いいんじゃない?」「好き嫌いが激しくて、わがまま」etc.
同じものを食べないと、人は途端に相手を否定する。
しかしよく考えれば、「食べられない人を否定する」というのは、非常におかしな話。
「食」は健康と直接つながっている。
よって「食べられない事情」は、誰にあってもおかしくない。
また「食べられない事情」というのは、たいてい深刻なもの。
誰にでも「食べられない事情」があっても不思議ではないし、「食べられない事情」は生命にかかわることかもしれないのに、「食べられないことを否定する」というのは、ゾッとするほど非道な話である。
本書をきっかけに、いま一度「食べ物・飲み物を無理やり勧める」という行為を考え直すべきであろう。
さらに本書を読むと、こんな言葉が浮かんでくる。
「無知の知」ならぬ「無想像の想像」。
本書を読んでいると、かくも人間とは「他者の気持ちを想像できないものか」と驚かされる。
誰もが、相手の気持ちを慮ろうとはしている。
相手の状況を想像しようと努力はしている。
しかし本書のエピソードを読むと、ビックリするほど「想像できない」ことがよくわかる。
「相手の立場・状況・悩み・つらさ」を想像してるつもりが、気がつけば「自分の思い込み」にとらわれている。
たとえば著者は入院中、「お見舞いに何が欲しいか」と聞かれ、「クレ556」と答える。
点滴スタンドの滑りを良くするために、本気でクレ556を頼むのに、誰も本気で受け止めてくれず、切り花を持ってくる。
なかにはきちんと要望を聞き、クレ556を買ってきてくれた人もいた。
しかしそういう人は貴重だという。
人間、相手の気持ちを想像しているつもりでいて、たいてい「自分都合」「自分の思い込み」にとらわれ、全く「相手の気持ち」など想像できていないのである。
だから私は思う。
人間には「無想像の想像」が必要なのだ、と。
冒頭で、自分をひっぱたいて「人の気持ちなど想像できないということを、想像すべきと言ってやりたい!」と書いたのは、そういう理由である。
潰瘍性大腸炎云々に限らず、「人と人がつきあうって、どういうことだろう?」「コミュニケーションって何だろう?」「共に生きるって何だろう?」と思ったら、ぜひ本書を手に取ってみてほしい。
今後、さまざまな人と出会い、つきあううえで、本書は間違いなく財産になるはず。
どこかの誰かが「あの人だけは、本当に自分のことをわかってくれる」と、全幅の信頼をおいてくれるだろう。
■「食べることと出すこと」内容
著者・頭木弘樹氏は20歳の時、潰瘍性大腸炎を発症。
下痢が2~3ヶ月続き、ついに血便が。
「明らかにおかしい」と思いつつも、病名を告げられることを恐れ、病院に行くのを避けていた。
そのうち出血も下痢も止まり、安心したのもつかの間。
便器が血で染まり、悶絶するほどの腹痛に襲われ、ついに病院へ。
「本当の症状」を言えなかったこともあり、適切な治療を受けられず、症状が悪化。
ついに症状をごまかしきれなくなり、受診すると・・・。
「うわっ!」と医師が叫んだ。
著者はすぐさま入院。
大腸を休めるため、絶食と点滴の日々に。
以後、「寛解」と「再燃」を繰り返しながら、「食べることと出すこと」に慎重に向き合う生活を送る。
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■「食べることと出すこと」感想
さて本書の内容を読み、「自分は胃腸が丈夫だから、読む必要ない」と思っただろうか?
他人事だと思っただろうか?
はっきり言おう。
本書は誰にとっても、断じて「他人事ではない」。
生きている人全てが「自分のこととして読める本」だ。
なぜなら本書がつづる最大のテーマは、「潰瘍性大腸炎の症状」ではない。
「コミュニケーションにおける、人間の大問題」を訴えているからだ。
たとえば著者は、こんな経験をつづる。
仕事の打ち合わせで、ある人と会ったという。
打合せ場所は、とある飲食店。
相手は「いい店でしょ」と言う。
しかし提供された料理を、著者は病気で食べられない。
相手は著者の病気を知っているため、一度は「そうですか」と引っ込める。
にも関わらず、しつこく「少しくらいなら」と勧めてくる。
「病気で無理で」と断っても断っても、言ってくる。
そのうち周囲の人まで「これ、おいしいですよ」「ちょっとだけなら」と言ってくる。
そんな人々・状況に対して、著者は言う。
間を取り持つというよりは、かたくなに食べない人間にいら立っているのだ。
私がその料理をほんの少しかじったからといって、それで他の人たちにとって、何かいいことがあるわけではない。私のお腹が少しダメージを受けるだけのことだ。
しかし、みんなしてそれを求めるのである。圧力をかけてきて、非難する。
じつに不思議なものだ。
その後、相手は著者に「ぜひ仕事を頼みたい」と言い、そのたびに「ちょっとだけでも」と食べ物を勧める。
しかし著者は病気で食べられない。
そのうち、仕事の話が来ることもなくなったという。
このエピソードにドキッと来る人は、多いのではないだろうか。
今どき「俺の酒が飲めねえって言うのか」と迫る人も、少ないかもしれない。
しかし、ついこんなことを言ってしまっている人、多いのでは。
「これおいしいのに」「これが食べられないなんてかわいそう」「少しぐらいなら、いいんじゃない?」「好き嫌いが激しくて、わがまま」etc.
同じものを食べないと、人は途端に相手を否定する。
しかしよく考えれば、「食べられない人を否定する」というのは、非常におかしな話。
「食」は健康と直接つながっている。
よって「食べられない事情」は、誰にあってもおかしくない。
また「食べられない事情」というのは、たいてい深刻なもの。
誰にでも「食べられない事情」があっても不思議ではないし、「食べられない事情」は生命にかかわることかもしれないのに、「食べられないことを否定する」というのは、ゾッとするほど非道な話である。
本書をきっかけに、いま一度「食べ物・飲み物を無理やり勧める」という行為を考え直すべきであろう。
さらに本書を読むと、こんな言葉が浮かんでくる。
「無知の知」ならぬ「無想像の想像」。
本書を読んでいると、かくも人間とは「他者の気持ちを想像できないものか」と驚かされる。
誰もが、相手の気持ちを慮ろうとはしている。
相手の状況を想像しようと努力はしている。
しかし本書のエピソードを読むと、ビックリするほど「想像できない」ことがよくわかる。
「相手の立場・状況・悩み・つらさ」を想像してるつもりが、気がつけば「自分の思い込み」にとらわれている。
たとえば著者は入院中、「お見舞いに何が欲しいか」と聞かれ、「クレ556」と答える。
点滴スタンドの滑りを良くするために、本気でクレ556を頼むのに、誰も本気で受け止めてくれず、切り花を持ってくる。
お見舞いに来る人というのは、お見舞いらしいものを持ってきたいようで、こちらの要望は聞いてくれない。
お見舞いの品というのは、こんなにままならないものなのかと思った。
お見舞いの品というのは、こっちのために持って来てくれるのだから、こっちのものだと思っていたのが、そうではなく、あくまで持ってくる人のものであるようだ。
なかにはきちんと要望を聞き、クレ556を買ってきてくれた人もいた。
しかしそういう人は貴重だという。
人間、相手の気持ちを想像しているつもりでいて、たいてい「自分都合」「自分の思い込み」にとらわれ、全く「相手の気持ち」など想像できていないのである。
だから私は思う。
人間には「無想像の想像」が必要なのだ、と。
冒頭で、自分をひっぱたいて「人の気持ちなど想像できないということを、想像すべきと言ってやりたい!」と書いたのは、そういう理由である。
潰瘍性大腸炎云々に限らず、「人と人がつきあうって、どういうことだろう?」「コミュニケーションって何だろう?」「共に生きるって何だろう?」と思ったら、ぜひ本書を手に取ってみてほしい。
今後、さまざまな人と出会い、つきあううえで、本書は間違いなく財産になるはず。
どこかの誰かが「あの人だけは、本当に自分のことをわかってくれる」と、全幅の信頼をおいてくれるだろう。
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