空の拳 角田光代

 だから今、知るべきだ。そんなものが届かないほどの高みを、静けさを、今立花は知るべきだ。正義によく似た何かから立花が逃げ切ることのできる、それが唯一の道なんじゃないか。立花が負けるべきなのはそんなものじゃない。負けないために、この先にいけ。
(本文引用)
__________________________________

 「チョー気持ちいい」。
 水泳世界王者・北島康介がアテネ五輪のレース直後に発したこの言葉は、当時流行語となり、今なお世の中に強い印象を残している。
 しかし、その言葉を聞いたとき、私は歓喜すると同時にこう思った。

 「『チョー気持ちいい』のは北島だけで、私はそっちの世界には行けないんだよね」

 テレビを観ている自分には「チョー気持ちいい」などと言う資格はない、所詮気持ちを共有することはできない。
 そんな虚無感が、体内をザァッと吹きぬけた。

 しかしこの本を読み、ガラリと認識が変わった。


 傍観者でも、競技者の気持ちを共有してもよいのだ。いや、共有すべきなのだ。
 目に見えない善や悪、虚と実、その他諸々のものと闘うために。
 
 そんな、読者を人生のリングに上げてくれる小説が、角田光代著「空の拳」である。
__________________________________

 出版社に勤務する空也は、スポーツ音痴の文学青年にも関わらずボクシング雑誌の編集部に異動となってしまう。
 酒に酔うとオネエ言葉になるという、とうてい拳闘に向いているとはいえない空也だが、取材がきっかけで、何とジムの練習生となる。
 空也は取材兼トレーニングを続けるが、そのうちジムのスター選手・立花望を追うようになる。
 端正な顔立ち、華のあるプレー、そして不遇な過去・・・立花は空也にとって格好の取材対象だった。
 しかし、その真実とは・・・。
__________________________________

 今や「女の業」を書かせたら日本一ともいえる角田光代が、男だらけのスポーツ小説を書く。
 それ自体意外で話題性があるが、この作品は、そんな情報を抜きにしても充分話題を呼んだであろう。

 理由は簡単、「ものすごく面白い」からだ。

 読んでいるうちに、私はいつの間にか勝負のリングに上がっていた。一生縁はないと思っていた「チョー気持ちいい」世界に行くことができた。

 ワンツー、フック、ストレート。

 途方もなく長く感じられる3分間、飛び交う野次のなかで、ボクサーは何に向かって拳を突き出すのか。
 そして勝利の先には何があるのか。

 ボクシングの素人でありながら必死に取材を続ける空也の瞳を通して、いつしか私までボクサーと自分とを重ね合わせ、目に見えない何かに向かって拳を突き出していた。

 悪、嘘、そして正義とよく似た何か、真実といわれる何か・・・

 ページをめくりながら、それら全てを砕くように、私は心の中でストレートやアッパーを繰り返していた。
 勝てない勝負かもしれないけれど、拳を向けずにはいられなかった。

 そして読後、私は身震いするほど「チョー気持ちよかった」と思うともに、「何も言えねえ」という感動に包まれたのである。


関連記事

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

「空の拳」角田光代

文芸編集志望の若手社員・那波田空也が異動を命じられたのは"税金対策"部署と揶揄される「ザ・拳」編集部。 空也が編集長に命じられて足を踏み入れた「くさくてうるさい」ボクシングジム。 そこで見たのは、派手な人気もなく、金にも名誉にも遠い、死が常にそこに横たわる過酷なスポーツに打ち込む同世代のボクサーたちだった。 彼らが自らの拳でつかみ取ろうとするものはいったいなんなのか――。 直木賞...
プロフィール

アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

最新記事
シンプルアーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
RSSリンクの表示
QRコード
QR

書評・レビュー ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村
カテゴリ
広告
記事更新情報
リンク
広告