山田詠美「つみびと」で私が泣けない、泣かなかった理由。二児餓死事件から見る「虐待の真の罪人」とは?
評価:★★★★★
二人には未来という名の希望を溜め込むための、大きな大きな袋があった筈ですのに。いったい、どこで、誰に奪われてしまったのでしょうか。
(本文引用)
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絶望のうちに短い生涯を閉じた、桃太の言葉を借りれば、こういうことだろうか。
2010年に起きた、大阪二児置き去り餓死事件。
「つみびと」は、この事件をモデルにしている。
小説なのでフィクションではある。
しかし虐待を扱ったノンフィクションや新書よりもはるかに、虐待の本質的な原因に迫っている。
あれほど子どもをかわいがり、学資保険加入まで考えていた女性が、なぜ、子どもを死に至らしめたのか。
冷蔵庫の電源を切り、ドアに目張りまでして、子どもを灼熱のマンションに閉じ込め、姿を消したのか。
そして、事件の本当の罪人とは誰なのか。
山田詠美「つみびと」の366ページは、1ページ1ページ、一文字一文字全身全霊で、虐待の真犯人を世に問うている。
だから私は泣かなかった。
だって泣いてしまったら、自分は犯人ではない、ただの傍観者になってしまうから。
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琴音の娘・蓮音が逮捕された。
子ども2人をマンションに放置し、死亡させたからだ。
蓮音は世間で“鬼母”といわれ、そのバッシングは母の琴音にも。
記者からは
という言葉を浴びせられる。
確かに琴音は子どもを置いて、たびたび家を空けていた。
そして琴音は子どもの頃も、たびたび家を出ていた。
父親の暴力、夫の暴力、そしてそれらに対し無力な母親、そして自分自身・・・。
子どもを死なせてしまった蓮音と、薄紙一枚の違いで子どもを殺すまでは至らなかった琴音。
彼女たちの人生はどこで違ったのか。
「母のようにはならない」と誓い、幸せな結婚をしたはずの蓮音が、なぜ母親以上の罪を犯してしまったのか。
懲役30年という、虐待事件で異例の重い判決が出た「二児置き去り餓死事件」。
そこに至るまでには、幾世代にもわたり積み重ねられ膨れ上がった、罪の種があった。
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冒頭でも書いたが、「つみびと」は「涙が出ない小説」であり「涙を流してはいけない小説」だ。
琴音も蓮音はともに、暴力、無視、放置、侮蔑、嘲り、邪見という環境のなかで育ってきた。
愛され、大事にされることを知らないゆえに、自分を大事にすることがわからない。
己の肉体を欲望の捌け口にし、ようやく「本当の恋愛」に出合えたと思っても、その愛をどう慈しみ育て維持すればよいのかわからない。
だから「今度こそは」と思っても、すぐに「今度こそは」の生活を壊してしまう。
砂浜に、砂で理想の家を作っては、わざと波に押し流すようにして壊してしまうのだ。
その最大の犠牲になったのが、置き去りにされた二人の幼児。
琴音、蓮音の絶望、絶望の連鎖の末、本当に「物理的な絶望」(灼熱のマンションで食糧・エアコン・冷蔵庫の電源もないまま目張りをされて放置)に追い込まれ、最後は泣く力もなく死に至り、腐臭を放っていく。
幸せをつかもうとしてもつかもうとしても、つかみ方がわからず、どんどん転がり落ちていく様は、読んでいて本当に辛かった。
読みながら、私まで蟻地獄に引き入れられるような感覚に陥った。
それほどまでに辛いのに、涙がまったく出なかった。
自分の臓物のなかで、涙がすっかり枯渇して、もう目から出るほど残っていない。
読んで辛すぎて辛すぎて、体の外に出す前に、体内で涙が消費されてしまったのだ。
それと同時に「これは泣いちゃいけないんだ」と、言い聞かせもした。
「かわいそうに」「ひどい話だ」と泣いて憤るのは、実は非常に気楽で呑気な行為だ。
誰かを憐れみ涙を流す行為には、時として「私はそんなことしないけど」という優越感がひそんでいる。
「つみびと」を読んでいると、幼児虐待事件で「罪のない人物」などいないと、痛烈に感じる。
罪がない人物は、虐待された子どものみ。
周囲の大人、いや、世の中の大人は皆「つみびと」なのだ。
まじめに結婚生活を送ろうとす人を、悪の世界に引き入れる者。
己の価値観で相手を支配し、ストレスを与え、逃げ出したくなる心境に追い詰める者。
いつまでも自立せず、居心地の良い環境に甘んじる者。
誰かの否を血筋のせいにし、家族もろとも侮辱する者。
相手のありのままを受け入れようとしない者。
そして、
事件に当事者意識をもたず、ただ非難する世間。
これらは全て、幼児虐待事件の罪人。
「つみびと」の功績は、そんな「当事者意識」を世に持たせている点だ。
実際に手をくだしてしまった人物だけが罪人ではない。
私たちは直接触れていないだけ。
実際に逮捕されるような行為をしていないだけ。
たまたまそれだけで、刑務所に入っていないだけなんだよ。
・・・そんな事実を「つみびと」はズドンと気づかせるのだ。
だから私は泣かなかった。
泣いたら他人事になってしまうから。
「つみびと」で泣いてしまったら、その瞬間、「自分に罪はない」と思ってしまう。
そんな非情なこと、私にはできない。
二人には未来という名の希望を溜め込むための、大きな大きな袋があった筈ですのに。いったい、どこで、誰に奪われてしまったのでしょうか。
(本文引用)
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「悲しすぎると、涙って本当に出ないんだな」
「つみびと」を読み、私は産まれて初めて「涙は、悲しみが臨界点を越えると乾いて出ない」ことを体感した。
私が本書を読み、涙を流さなかった理由はもうひとつある。
泣いてしまったら、涙をこぼしてしまったら、この事件は他人事になってしまう。
「かわいそうに。辛かったろうに」で終わってしまう。
過去のこととして、涙とともに洗い流されてしまう。
だから私は泣かなかった。
心臓を突き破られるような痛み、苦しみを感じながらも、「この本で泣いてはいけない」と思った。
「つみびと」を読み、私は産まれて初めて「涙は、悲しみが臨界点を越えると乾いて出ない」ことを体感した。
私が本書を読み、涙を流さなかった理由はもうひとつある。
泣いてしまったら、涙をこぼしてしまったら、この事件は他人事になってしまう。
「かわいそうに。辛かったろうに」で終わってしまう。
過去のこととして、涙とともに洗い流されてしまう。
だから私は泣かなかった。
心臓を突き破られるような痛み、苦しみを感じながらも、「この本で泣いてはいけない」と思った。
絶望のうちに短い生涯を閉じた、桃太の言葉を借りれば、こういうことだろうか。
涙が自らの重みに耐えられなくなり、ぽろんと瞼からこぼれたりすれば、自分もまた一緒に転がり落ちて溺れてしまう。悲しみという湖で、あっぷあっぷするに違いない。そのことは、幼な子なりの独特の勘で解っていました。
2010年に起きた、大阪二児置き去り餓死事件。
「つみびと」は、この事件をモデルにしている。
小説なのでフィクションではある。
しかし虐待を扱ったノンフィクションや新書よりもはるかに、虐待の本質的な原因に迫っている。
あれほど子どもをかわいがり、学資保険加入まで考えていた女性が、なぜ、子どもを死に至らしめたのか。
冷蔵庫の電源を切り、ドアに目張りまでして、子どもを灼熱のマンションに閉じ込め、姿を消したのか。
そして、事件の本当の罪人とは誰なのか。
山田詠美「つみびと」の366ページは、1ページ1ページ、一文字一文字全身全霊で、虐待の真犯人を世に問うている。
だから私は泣かなかった。
だって泣いてしまったら、自分は犯人ではない、ただの傍観者になってしまうから。
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■「つみびと」あらすじ
琴音の娘・蓮音が逮捕された。
子ども2人をマンションに放置し、死亡させたからだ。
蓮音は世間で“鬼母”といわれ、そのバッシングは母の琴音にも。
記者からは
「あなたも、娘を捨てて出て行ったんじゃないですか?」
「虐待は親から子に連鎖すると言いますからね」
という言葉を浴びせられる。
確かに琴音は子どもを置いて、たびたび家を空けていた。
そして琴音は子どもの頃も、たびたび家を出ていた。
父親の暴力、夫の暴力、そしてそれらに対し無力な母親、そして自分自身・・・。
子どもを死なせてしまった蓮音と、薄紙一枚の違いで子どもを殺すまでは至らなかった琴音。
彼女たちの人生はどこで違ったのか。
「母のようにはならない」と誓い、幸せな結婚をしたはずの蓮音が、なぜ母親以上の罪を犯してしまったのか。
懲役30年という、虐待事件で異例の重い判決が出た「二児置き去り餓死事件」。
そこに至るまでには、幾世代にもわたり積み重ねられ膨れ上がった、罪の種があった。
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■「つみびと」感想
冒頭でも書いたが、「つみびと」は「涙が出ない小説」であり「涙を流してはいけない小説」だ。
琴音も蓮音はともに、暴力、無視、放置、侮蔑、嘲り、邪見という環境のなかで育ってきた。
愛され、大事にされることを知らないゆえに、自分を大事にすることがわからない。
己の肉体を欲望の捌け口にし、ようやく「本当の恋愛」に出合えたと思っても、その愛をどう慈しみ育て維持すればよいのかわからない。
だから「今度こそは」と思っても、すぐに「今度こそは」の生活を壊してしまう。
砂浜に、砂で理想の家を作っては、わざと波に押し流すようにして壊してしまうのだ。
その最大の犠牲になったのが、置き去りにされた二人の幼児。
琴音、蓮音の絶望、絶望の連鎖の末、本当に「物理的な絶望」(灼熱のマンションで食糧・エアコン・冷蔵庫の電源もないまま目張りをされて放置)に追い込まれ、最後は泣く力もなく死に至り、腐臭を放っていく。
幸せをつかもうとしてもつかもうとしても、つかみ方がわからず、どんどん転がり落ちていく様は、読んでいて本当に辛かった。
読みながら、私まで蟻地獄に引き入れられるような感覚に陥った。
それほどまでに辛いのに、涙がまったく出なかった。
自分の臓物のなかで、涙がすっかり枯渇して、もう目から出るほど残っていない。
読んで辛すぎて辛すぎて、体の外に出す前に、体内で涙が消費されてしまったのだ。
それと同時に「これは泣いちゃいけないんだ」と、言い聞かせもした。
「かわいそうに」「ひどい話だ」と泣いて憤るのは、実は非常に気楽で呑気な行為だ。
誰かを憐れみ涙を流す行為には、時として「私はそんなことしないけど」という優越感がひそんでいる。
「つみびと」を読んでいると、幼児虐待事件で「罪のない人物」などいないと、痛烈に感じる。
罪がない人物は、虐待された子どものみ。
周囲の大人、いや、世の中の大人は皆「つみびと」なのだ。
まじめに結婚生活を送ろうとす人を、悪の世界に引き入れる者。
己の価値観で相手を支配し、ストレスを与え、逃げ出したくなる心境に追い詰める者。
いつまでも自立せず、居心地の良い環境に甘んじる者。
誰かの否を血筋のせいにし、家族もろとも侮辱する者。
相手のありのままを受け入れようとしない者。
そして、
事件に当事者意識をもたず、ただ非難する世間。
これらは全て、幼児虐待事件の罪人。
「つみびと」の功績は、そんな「当事者意識」を世に持たせている点だ。
実際に手をくだしてしまった人物だけが罪人ではない。
私たちは直接触れていないだけ。
実際に逮捕されるような行為をしていないだけ。
たまたまそれだけで、刑務所に入っていないだけなんだよ。
・・・そんな事実を「つみびと」はズドンと気づかせるのだ。
だから私は泣かなかった。
泣いたら他人事になってしまうから。
「つみびと」で泣いてしまったら、その瞬間、「自分に罪はない」と思ってしまう。
そんな非情なこと、私にはできない。