羆嵐(くまあらし) 吉村昭
組織は、相反した二面性をもつが、人数による単純な数値をはるかに越えた力にふくれ上ることがある反面、逆に異常なほどの弱さをしめす場合もある。
(本文引用)
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住民たちはいずれも、林野管理局の勧告に従い移住してきた者たちだった。
イナゴの害により農作物が壊滅的し、餓死寸前に陥ったための対策であった。
厳しい寒さと粗末な暮らしは変わらなかったが、飲料水に事欠かず、虫の害がほとんどないこの地区で、人々は日々の安定を得ていた。
しかしその背後で、不穏な足音が忍び寄る。
飼っている馬がしきりにいななき、つるしていたトウキビが食い荒らされる。
地面に目をやると、尋常ではない大きさの足跡が・・・。
そしてある日、ついに恐れていたことが起こる。
帰宅した男が、囲炉裏端に座る子供にジャガイモを食べさせようと体を揺すったところ、何と子供はのどから大量の血を流し死んでいた。
見回すと、妻の姿がない。
当初、村人たちは複数の人間による暴行事件と考えたが、事の重大さが次第に見えてくる。
窓枠にこびりついた、血だらけの長い毛髪-それは人間の力をはるかに超えたもの-羆(ひぐま)による犯行であることを物語っていた。
そこから、住民たちと羆との死闘が始まる。
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この事件では、2日間で6人が殺され重傷者も数名。特に女性は、ほぼ跡形もなく食べられた。その中には臨月の女性もおり、胎児まで食い尽くされていたという(胎児も含め死者7名とする説もある)。
犯人である羆は、冬ごもりをする穴を見つけられなかった「穴持たず」の羆であり、そのような羆は特に気性が荒いとあるが、その爪痕は想像するのも恐ろしい酷さだ。
現在でも北海道では、羆の出没を防ぐため、ゴミの放置などを厳格に禁じており、また羆の姿および糞・足跡を発見した場合は、役所に連絡するよう呼びかけている。
日頃、身近に感じていないと「そんな大げさな」と思うかもしれないが、この本を読むかぎり、羆に関してはいくら注意しても注意しすぎることはないと、切に思う。
しかし、恐ろしいのは羆だけではない。
それに相対する人間の甘さ、傲慢さ、浅慮さの方がはるかに恐ろしいということを、本書は物語っている。
村人たちや警察が何人束になっても、到底羆に対抗しえないとわかった区長は、「銀オヤジ」と呼ばれる一人の男に助けを求める。
素行が悪く、村人たちに忌み嫌われる男であるが、熊撃ちの腕では右に出る者はいない。
地区の分署長は、自分たちの手でしとめられないことに苦い顔をし、200名もの男たちを連れて別行動をとるが、結局、銀オヤジ1人にかなうことはなかった。
羆に関する知識、無駄のない動き等、どれをとっても銀オヤジの圧勝だったのである。
この経緯における分署長らの行動は、人間の愚かさを如実に表している。
プライドの高さ故に、焦りともとれる判断と指示をくりかえし、そのたびに一団に沈鬱な空気が流れる。
一斉射撃をしては不発に終わり、大勢で動いては羆に動きを悟られる。やることなすこと逆効果なのだ。
そのなかで銀オヤジだけは、唯一心を乱されることなく、己の経験に基づく冷静な判断で確実に羆をしとめる。
200余名対1人。「人間」対「羆」の闘いのように見えて、実はこの小説は「人間」対「人間」を描いているのではないか。そうとらえると、この小説は「人間を知る」という意味で非常に有益であることがわかってくる。
“何となく集まった”大人数というものが、いかに脆いものか。
虚栄心や意地というものが、いかに本質を見る目を曇らせるか。
“なあなあ”の希望的観測というものが、いかにあてにならないか。
これは史上最悪の獣害事件とはいうが、本書を読む限り、人間の判断ミスに負うところも大きい。
野生動物の事件だからといって、決して無視してはいけない。
見過ごせば、必ずや「人間が起こす悲劇」へとつながっていくであろう。
そのことを存分に思い知らせてくれる、歴史的名著である。
(本文引用)
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以前紹介した「でっちあげ」同様、「半沢直樹になるための“必読書”」(「DIME」10月号)として挙げられていた一冊。
ノンフィクション小説の巨匠・吉村昭氏の作品ということで、面白さと迫力は折り紙つきであるが、それにしてもこれはすごい。
獣害史最大の惨劇ともいわれる、三毛別羆事件。
その事件の一部始終を描いたこの「羆嵐」は、自然の驚異と、それを前にした時の人間の矮小さ、愚かさを生々しく浮き彫りにした傑作だ。
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時は大正初期。
北海道は三毛別川沿い、六線沢で事件は起こる。
ノンフィクション小説の巨匠・吉村昭氏の作品ということで、面白さと迫力は折り紙つきであるが、それにしてもこれはすごい。
獣害史最大の惨劇ともいわれる、三毛別羆事件。
その事件の一部始終を描いたこの「羆嵐」は、自然の驚異と、それを前にした時の人間の矮小さ、愚かさを生々しく浮き彫りにした傑作だ。
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時は大正初期。
北海道は三毛別川沿い、六線沢で事件は起こる。
住民たちはいずれも、林野管理局の勧告に従い移住してきた者たちだった。
イナゴの害により農作物が壊滅的し、餓死寸前に陥ったための対策であった。
厳しい寒さと粗末な暮らしは変わらなかったが、飲料水に事欠かず、虫の害がほとんどないこの地区で、人々は日々の安定を得ていた。
しかしその背後で、不穏な足音が忍び寄る。
飼っている馬がしきりにいななき、つるしていたトウキビが食い荒らされる。
地面に目をやると、尋常ではない大きさの足跡が・・・。
そしてある日、ついに恐れていたことが起こる。
帰宅した男が、囲炉裏端に座る子供にジャガイモを食べさせようと体を揺すったところ、何と子供はのどから大量の血を流し死んでいた。
見回すと、妻の姿がない。
当初、村人たちは複数の人間による暴行事件と考えたが、事の重大さが次第に見えてくる。
窓枠にこびりついた、血だらけの長い毛髪-それは人間の力をはるかに超えたもの-羆(ひぐま)による犯行であることを物語っていた。
そこから、住民たちと羆との死闘が始まる。
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この事件では、2日間で6人が殺され重傷者も数名。特に女性は、ほぼ跡形もなく食べられた。その中には臨月の女性もおり、胎児まで食い尽くされていたという(胎児も含め死者7名とする説もある)。
犯人である羆は、冬ごもりをする穴を見つけられなかった「穴持たず」の羆であり、そのような羆は特に気性が荒いとあるが、その爪痕は想像するのも恐ろしい酷さだ。
現在でも北海道では、羆の出没を防ぐため、ゴミの放置などを厳格に禁じており、また羆の姿および糞・足跡を発見した場合は、役所に連絡するよう呼びかけている。
日頃、身近に感じていないと「そんな大げさな」と思うかもしれないが、この本を読むかぎり、羆に関してはいくら注意しても注意しすぎることはないと、切に思う。
しかし、恐ろしいのは羆だけではない。
それに相対する人間の甘さ、傲慢さ、浅慮さの方がはるかに恐ろしいということを、本書は物語っている。
村人たちや警察が何人束になっても、到底羆に対抗しえないとわかった区長は、「銀オヤジ」と呼ばれる一人の男に助けを求める。
素行が悪く、村人たちに忌み嫌われる男であるが、熊撃ちの腕では右に出る者はいない。
地区の分署長は、自分たちの手でしとめられないことに苦い顔をし、200名もの男たちを連れて別行動をとるが、結局、銀オヤジ1人にかなうことはなかった。
羆に関する知識、無駄のない動き等、どれをとっても銀オヤジの圧勝だったのである。
この経緯における分署長らの行動は、人間の愚かさを如実に表している。
プライドの高さ故に、焦りともとれる判断と指示をくりかえし、そのたびに一団に沈鬱な空気が流れる。
一斉射撃をしては不発に終わり、大勢で動いては羆に動きを悟られる。やることなすこと逆効果なのだ。
そのなかで銀オヤジだけは、唯一心を乱されることなく、己の経験に基づく冷静な判断で確実に羆をしとめる。
200余名対1人。「人間」対「羆」の闘いのように見えて、実はこの小説は「人間」対「人間」を描いているのではないか。そうとらえると、この小説は「人間を知る」という意味で非常に有益であることがわかってくる。
“何となく集まった”大人数というものが、いかに脆いものか。
虚栄心や意地というものが、いかに本質を見る目を曇らせるか。
“なあなあ”の希望的観測というものが、いかにあてにならないか。
これは史上最悪の獣害事件とはいうが、本書を読む限り、人間の判断ミスに負うところも大きい。
野生動物の事件だからといって、決して無視してはいけない。
見過ごせば、必ずや「人間が起こす悲劇」へとつながっていくであろう。
そのことを存分に思い知らせてくれる、歴史的名著である。