「氷壁」 井上靖

 「切れないはずのザイルが切れた!確かに、それは問題であるだろう。しかし、いまの魚津にしたら、そんな論議はどうでもよかった。とにかくザイルは切れ、小坂は落ちたのである。そして、小坂乙彦はもうこの世に居ないのである。この記事を読んで、魚津はまた、自分がひとりであるという思いを新たにした。」
(本文引用)
_____________________________

 もし、自分が社会的信用を一度に失うような目にあったら、あいそうになったら、どうするだろう。どうあがくだろう。
 世の中には、犯人と被害者が明確な事件はもちろん、冤罪事件や未解決事件、事故かもしれない事件も常にどこかで起きている。
 私たちは、テレビや新聞で事件の存在程度は知るが、果たしてその事件に関わる人達の苦しみや闘いにまで、思いが及んでいるだろうか・・・。

___________________________

 商社に勤める魚津恭太は、登山を趣味としており、そのキャリアは日本屈指の難所・穂高を制するほどである。


 ある日、魚津は、同じく山を愛する親友の小坂乙彦に、恋の悩みを打ち明けられる。その相手は他人の細君であるという。
 そんな恋愛は不毛だと止める魚津に対し、「ぼくはもうだめだ」と恋の炎に身を焦がさんばかりにもだえる小坂。

 そんな小坂に、「山に登って、そんな思いは振り切れ」と、年末恒例である奥穂高登山の予定を立てる。
 二人は無心で登り、山中のテントの中で元旦を迎える。
 そして再び足場を探しながら登り始め、もう少しで楽になる、そう思った瞬間。 

「小坂の体が急にずるずると岩の斜面を下降するのを見た。次の瞬間、魚津の耳は、小坂の口から出た短い烈しい叫び声を聞いた」


 -小坂は、落ちたのだ。
 穂高の山の中を、降りゆく雪と共に吸い込まれるように・・・。

 原因は、二人をつなぐザイルが突然、切れたためだった。

 この事故は、新聞でも大きく報道された。しかし、社会面に書かれた見出しは、思いもよらぬものだった。 

 「ナイロン・ザイルは果して切れたか」

 魚津は確かに、ナイロン・ザイルが切れたのを見た。
 しかし、当時世間では、ナイロン・ザイルは絶対に切れないものと信じられていた。
 そのために、魚津が殺したのではないか、小坂が自殺したのではないか、二人の登山技術が未熟だったのではないか、と様々な噂が世間を飛び交うようになる。
 そこから、魚津恭太の闘いの日々が始まる。
 
 度重なる実験の結果、ナイロン・ザイルは、ある一定の条件のもとでは切れる可能性があると証明され、魚津は自分と小坂の名誉挽回のためにも、新聞社にその実験結果を報じてくれるよう懇願する。
 しかし、新聞社の反応はまたも魚津を痛めつけるものだった。

 

「ちょっとニュースとしては弱いでしょうね」
「いまとなっては古いと思うんです」

 刹那、魚津の眼前は闇と化したのである。

 絶望に打ちひしがれた魚津は、小坂のため、小坂の愛する人のため、そして自分のために、再び山に登る。
 それは、人生の全てをかけた登はんであった。

______________________________


 私は、この小説を読んで背筋が凍った。
 毎日、どこかで事件・事故が報道され、悲しんでいる人がいることは知っている。
 しかし、その瞬間は心を痛めても、必ずその出来事は自分の中で風化していく。
 同時に、世の中でも風化していく。

 そして、いったん疑いを持った世の中の目は、穂高連峰の岩壁以上の硬さをもつ、まさしく氷壁となって、当事者たちの思いや願いを撥ねつけていくのである。

 しかし、決して忘れてはならない。
 その事件・事故にまつわる人にとっては、加害者であろうと被害者であろうと、当事者であろうとなかろうと、一生風化することはないことを。
 真相を究明しようと日夜努力を重ね、心身ともに血も涙もにじませているということを。
 世間の目に苦しめられ、心晴れやかに太陽の下を歩くのを夢見ているということを。

 この小説は、そのような世の中の隠れた苦しみを、私に命がけで教えてくれた。

 もうすぐ2011年が幕を閉じる。
 いつの間にか報道されなくなった出来事も数多くあるだろう。

 しかし、報道されなくなったから、終わりなのではない。
 裁判が終わったから、終わりなのではない。
 いつまでも終わることのない事件・事故がある。
 年が改まっても、そのことを肝に銘じながら、2012年を迎えようと思う。

ご購入はこちら↓
【送料無料】氷壁改版

【送料無料】氷壁改版
価格:820円(税込、送料別)

プロフィール

アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

最新記事
シンプルアーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
RSSリンクの表示
QRコード
QR

書評・レビュー ブログランキングへ
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村
カテゴリ
広告
記事更新情報
リンク
広告