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「小さなスナック」

 ナンシー:
 前にNHK教育の絵手紙講座見てたらさ、生徒が、先生のような味のある字、要するにへたっぽい字なんだけど、どうしても書けなくて、左手で書いてみましたっていうの。そしたら先生、大変いいところに気がつきました、って褒めるんだよ(笑)。それってほんと小手先の話じゃん。
 リリー:
 ここはバカボンのパパ的な人が出てきて「左足で描きましたのだ」くらいまで破壊してほしいね。

 (本文引用)
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 「笑いたいね」
 「笑いたいね。もう内臓が裏返るほどに」
 「声は出さなくてもいいんだけど、息ができなくなって意識が混濁するほど笑いたいね」
 先日、家族でこんなことを話した。

 1日1回は大声を上げて盛大に笑ってしまう私であるが、心の奥底からマグマのようにわきあがる笑いというものには、残念ながらなかなか出会えない。
 その脇で、子供は、しばしばのたうちまわって笑っている。
 いったい何がそんなに面白いのかは謎なのだが、その姿がとても羨ましい。

 そんな私にとっての一服の清涼剤が、この本「小さなスナック」
 リリー・フランキーとナンシー関による、珠玉の対談集である。


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 以前、「評伝 ナンシー関」のレビューでナンシー関の魅力について触れたが、この対談で、より深くその面白さ、鋭さがリリー氏共々浮かび上がってくる。

 まず注目すべきは、どこへ転がるかわからないローリングストーンぶりと、まさに常軌を逸した脱線具合である。

 あるときはリリーが石垣島に行った話から、ストレートにスキューバ・ダイビングの話になり、そしてネイチャー番組の小型カメラの話につながったと思ったら、気がつけば終着地点は恍惚の耳かき自慢。

 またあるときは、ナンシーの自動車免許取得の話から、あまり間をおかずにカツラの話で盛り上がり、気がつけば場所は中条きよしの着物お見立て会。

 さらにあるときには、共通の価値観の者同士で固まって生きることに苦言を呈し、異物の必要性を訴えるという真面目な話から、「そうそう異物といえば」といった調子で「某食品にフナムシが混入していた事件」へと発展し、どこがどうなったのか、広末涼子がGooのCMに出ているのが納得いかない、という話にまでもつれこんでいる。

 一見めちゃくちゃな会話のようだが、よく考えれば世の多くの日常会話は「何でこの話、してるんだっけ?」といった行き先のわからぬミステリー列車のようなものであり、それが日々の生活を面白くしているのだ。
 それまで話したこともなかった人と、ひょんな話題から仲良くなったり、尊敬していた人物の意外な趣味や性格が露呈したり・・・。
 1つの言葉から始まる脱線、脱線、また脱線は、すればするほど人生に彩をもたらしてくれるのである。

 そんな「素晴らしきおしゃべり」の魅力を余すところなく伝えてくれる本書だが、人並みはずれた好奇心と探究心をもつリリーとナンシーのこと、その広い守備と攻撃の範囲から、話題は想像もつかない方向へと勢いよく話が転がっていく。その様子がたまらなく面白い。

 また、社会の規範や建前にとらわれない2人だけに、かなり言いたい放題の内容ではあるが、不思議なことにこれが全く下品ではない。いやむしろ爽やかな涼風ただよう品のよさすら感じる。

 「歯に衣着せぬ発言が魅力」などというと、時々何でもズバズバ言えばいいと勘違いして、どんどん野犬のようになっていく有名人がいるが、この2人はそれがない。
 「皆言葉には出さないが、これは誰もが感じているのではないか」という物事の灰汁の部分を、実に巧みにすくって軽やかに指摘する。

 その代表格が、冒頭で挙げた引用部分、「絵手紙に対する疑問」だが、他にも

 「耳掃除をする際に、耳かき棒を長く持ったまま、いきなり始めようとする人間は信用できない」
 「字の汚い領収書は効果がなさそう」
 「『リ』と『ソ』、『シ』と『ツ』の書き方をうやむやにしたまま暮らしている人がいる」

 
 ・・・といった、「たいしたことではないのだが、結構気になる」ことがためらいなく指摘されている。

 そしてそれが傲慢にならないのは、この2人が「他人ではなく、自分を笑う」という美徳を兼ね備えているからであろう。

 「ヤフオクでの中古車購入」「どうしても川魚の臭いがしてしまうカレー作り」「水疱瘡を友達にうつして台無しになった修学旅行」・・・等々、インパクトの強い失敗談(特にリリー氏)が汲めども尽きぬ様子で語られるのだが、もうそれが抱腹絶倒ものの可笑しさ。
 何度読んでも涙が出るほど笑え、また同時に自分の過去の失敗なども思い出され、面白さが何倍にも膨らんでいく。
 そして、真の笑いには、まず「自分を笑い飛ばす強さと謙虚さ」が必要なのだと気づかされる。ああ、何という爽快な気分だろう。
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 いろいろ長々と書いてきたが、一言で言って「ものすごく自由な気持ちになれる本」
 思い切り笑いたい、そしてできれば胸のすくような思いもしたい、という人に全力でおすすめする一冊である。

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「評伝 ナンシー関」

 「勧誘するってのは相手の内面のどこかを揺るがせることだけど、あんた絶対そういう動かされ方はしないもん。もう磐石の如き自意識。全盛期の柏戸もかくや、だな」
(本文引用)
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 若くして逝ったコラムニスト&アーティスト、ナンシー関。
 絶妙なキャプションをつけた消しゴム版画といえば、覚えておられる方も多いであろう。
 卓越した文章力と描画力でテレビを斬り、常に胸のすく思いをさせてくれた希代の勇士である。

 ナンシー関が亡くなったと知った時、私は茫然自失となった。ナンシー関が大好きだったからだ。
 
 気の置けない友人とは、「ナンシー関の約百面相」ハガキで暑中見舞いや年賀状を送りあい、文藝春秋で行われた「原ゴム展」には、終業後、サブカル好きの同僚とタクシーを飛ばして駆けつけた。
 そしてナンシー関が亡くなった時には、思いのたけを綴った追悼文を某新聞社に送り、それが掲載された。掲載の有無はさておき、とにかくナンシー関は私の心の支えであり、ナンシーのおかげで毎日が輝いていたと言っても過言ではない。

 その衝撃の急逝から、今年の6月で10年。
 そこで出されたのが、今回ご紹介する「評伝 ナンシー関」である。


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 まず興味深いのは、何と言ってもナンシー関を形作ってきたもの、つまりナンシー関こと“関直美”の生い立ちである。本書には、ご家族や小中高の友人たちによる談話がたいへん豊富かつ詳細に載せられている。

 世良公則&ツイストのファンだった女の子に「Twist」という消しゴム版画を彫ってプレゼントしたり、長い朝礼の間に長嶋茂雄に関するコラムをメモ帳に書き友人に見せたり・・・後の活躍を十分に予想させる数々のエピソードからは、ナンシー関の類まれなる才能と、テレビに対する並々ならぬ愛情がうかがえる。そしてまた、周囲の人々が“関直美”という個性を心から楽しんでいた様子も垣間見られる。

 そして上京後、ナンシー関は次第に「面白い人がいる」と認められるようになり、毎日が締め切りとなるほどの売れっ子となるわけだが、なぜそれほどまでに業界が、いや世の中がナンシー関を求めたか。
 本書ではその点について、ナンシー関を囲む友人・仕事関係者、そして“彫られた”芸能人らへの幾多のインタヴューを通じて、実に多角的な視点から分析をしている。

 なかでも印象的だったのは、コラムニスト小田嶋隆の言葉だ。

 「自分に見える徳光と、ナンシーが見た徳光を並べてみることで、はじめてその人物像が立体化するというようなことが、徳光に限らず何度もあったんです。私を含めた多くの読者にとって、ナンシーの文章は、テレビを複眼的に見ることを可能にしてくれた功労者だと思っています」
 (本文引用)

 徳光とは勿論アナウンサー徳光和夫のことだが、それは別として、この小田嶋氏の言葉には、ナンシーのコラム同様、抜けるほど膝を叩いた。
 そうなのだ。ナンシー関のコラムを読むたびに、いやコラムを読むまでもなく似顔絵に添えられたキャプションを読むだけで、「自分の見方」と「ナンシーの見方」とが重なり合い、そして「この有名人の今現在のあり方」を明確に定義することができるのだ。そのときの爽快感、高揚感といったら、ちょっと他では味わえないものがあった。

 秋元康に添えられた「マルチに小商い」、永六輔に添えられた「せきこえのどに」、大橋巨泉に添えられた「休めよオレみたいに ばかやろう」・・・。

 どれもこれも「そうそう、そうなんだよね。要するにこの人は」と大きくうなずきたくなる絶妙なひと言。
 業界人でありながら、タレントの価値を視聴者がどう捉えているかという相対的知覚価値を、極めて正確に測定したこの手腕には、もはや天晴というほかない。

 それにしても、なぜこのような見事な作品を、クオリティを落とすことなく作り続けることができたのか。
 それは本書によると、ナンシー関が頑ななまでに「テレビの一視聴者」でありつづけようとした姿勢故、とされている。
 どんなに有名になっても、テレビに懐柔されることなく、一人の視聴者として「面白いか面白くないか」をバッサリと判断し、丸裸にしてそのまま写し取る。
 そのテレビへの深い愛情から来る信念が、同じくテレビを愛する多くの大衆を惹きつける結果をもたらしたのであろう。

 さらに興味深く読めたのが、作家宮部みゆきの談話だ。
 ナンシー関のコラムの大ファンだったという宮部氏は、「心に一人のナンシーを」という言葉を常に胸に抱き、作家として舞い上がることのないよう心がけているという。そしてどこまでも客観的な視点をもつナンシーのコラムのおかげで、「自分を見失わずにすんだ」とまで語っている。

 ちなみにこの「心に一人のナンシーを」という言葉は、民俗学者大月隆寛によるもので、大月氏はナンシー関との対談で、当レビュー冒頭に書いた言葉をナンシーに向けている。
 大月氏は、「ナンシー関は街角で宗教に勧誘されたりしない」と言い切ったうえで、誰もがどこかでナンシー関に見られていると思えば、安易に何かを信じ込んだりすることはないのではないかと語っている。

 もはやナンシー関の及ぼした影響力と功績は、とどまることを知らないことがよくわかるエピソードだ。

 本書には、仕事もプライベートも含めたナンシー関の知られざる情報が300ページにも及んで紹介されているが、無駄に好奇心をそそるようなところのない、とにかく誠実かつ真摯な人物伝だ。
 故人を美化することも貶めることもなく、ナンシー関以上でも以下でもない、ナンシー関そのものをひたすら追い続け、深く掘り下げている。
 それは、ナンシー関が嘘や虚飾を許さない人間だからであろう。
 これがいたずらに美辞麗句を並べたような内容だったとしたら、「こんなこと書いてあったら、そりゃ買うだろうよ。あんまりあこぎなことすんなよ」などとナンシー関が嘆きそうなところだが、そのような嫌らしさのない、純粋な敬意に満ちた評伝である。

 ナンシー関の一ファンとして、著者・横田増生氏に心から感謝したい。
 ナンシー関よ、永遠なれ。
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プロフィール

アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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