「ヘヴン」
「君が世界に望む態度で世界が君に接してくれないからって世界にたいして文句は言えないだろう?そうだろ?つまりいまのことで言えば、なにかを期待して話すのは君の勝手だけど、僕がなにを考えてどういう行動にでるのかについては君は原則的にかかわることはできないってことだ」
(本文引用)
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私は基本的に、他人に期待しないようにしている。
この「他人」には友人や家族も当然含まれており、決して「信用しない」という意味ではない。
信用はするが期待はしない、いや、期待しても仕方がない、と思っている。
なぜなら、人間はみな脳内の地図を持っており、その地図は、日本地図や世界地図のような定まった形をしていないからだ。
以前、「寝ながら学べる構造主義」のレビューでも書いたが、人間の思考とは、自分が生きてきたごく狭い環境・社会構造に基づいて構築される。
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主人公の「僕」は中学2年生。毎日学校で、苛烈ないじめを受けている。
自尊心を滅茶苦茶に傷つけられ、血反吐を吐くほどのいじめを受けても、「僕」はやり返すでもなく、ただなされるがままにしている。そのせいか、日増しにいじめはエスカレートしていく。
そんな「僕」に、同じクラスの女子・コジマから手紙が届く。
「わたしたちは仲間です」
そのコジマもまた、女子にいじめられている生徒だった。
「僕」とコジマは友達となり、お互い「いじめられている自分」について考えをめぐらせる。
コジマは言う。
「あの子たちにも、いつかわかるときが来る」、と。
そんな風に、加害者たちが後悔する未来を描く2人だが、ある日「僕」は、教室でいじめの黒幕である少年と対峙する。
その時に「僕」が知らされる、いじめる側の論理とは・・・?
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驚いた。それはもう平衡感覚が失われるほどに。
そして慄いた。
小説を読み、これほど「人間が怖い」と思ったことはない。
まず何に驚いたかというと、同じ人間でも、これほどまでに脳内地図が異なるという点だ。
どんなに暴力を振るわれても、どうしても殴り返すことができない「僕」。
「自分がされて嫌なことはしない」ことを旨とし、「自分」と「他者」とを同一視する「僕」。
ただそこにいるというだけで、簡単に人を完膚なきまでに痛めつけることができる「加害者」。
そして「自分がされること」と「他人にすること」とを全く別次元で考える「加害者」。
さらに衝撃的なことに、その脳内地図の違いは、仲間であるはずの「僕」とコジマとて例外ではなかった。
そして何がそれほど恐ろしかったかというと、その異なる脳内地図ゆえ、この小説の中で加害者は決して後悔などしない、「わかるとき」など永遠に来ないということだ。
日常生活でも、どうにも理解しあえない、溶け合えない人間関係というものはあるが、この小説は、「それは永遠に解消できない」という現実を情け容赦なくつきつける。そこに例え暴力が絡んでいようとも、その法則は変わらないということを惨たらしいまでに示している。
川上未映子の他作品のレビュー→「すべて真夜中の恋人たち」
(本文引用)
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私は基本的に、他人に期待しないようにしている。
この「他人」には友人や家族も当然含まれており、決して「信用しない」という意味ではない。
信用はするが期待はしない、いや、期待しても仕方がない、と思っている。
なぜなら、人間はみな脳内の地図を持っており、その地図は、日本地図や世界地図のような定まった形をしていないからだ。
以前、「寝ながら学べる構造主義」のレビューでも書いたが、人間の思考とは、自分が生きてきたごく狭い環境・社会構造に基づいて構築される。
それに基づいて描かれた脳内の地図は、まず間違いなく1人ひとり異なっている。
よって、自分が心の中で「こうしてほしい」と考えていることを、以心伝心のように他人が行ってくれることなど、ほぼ奇跡に近いといえるだろう。
また、自分が善や悪だと思っていることでも、他人にとってはそうではない可能性も充分にある。
しかしそれが、明らかに誰かを激しく痛めつけるものである場合は、どうだろう。明らかに悪と思われる場合は、どうだろう。
そんな問題を残酷なまでに鋭く提起する小説、それが「ヘヴン」。
芥川賞作家・川上未映子が、芸術選奨文部科学大臣新人賞・紫式部文学賞をダブル受賞した衝撃の問題作である。
よって、自分が心の中で「こうしてほしい」と考えていることを、以心伝心のように他人が行ってくれることなど、ほぼ奇跡に近いといえるだろう。
また、自分が善や悪だと思っていることでも、他人にとってはそうではない可能性も充分にある。
しかしそれが、明らかに誰かを激しく痛めつけるものである場合は、どうだろう。明らかに悪と思われる場合は、どうだろう。
そんな問題を残酷なまでに鋭く提起する小説、それが「ヘヴン」。
芥川賞作家・川上未映子が、芸術選奨文部科学大臣新人賞・紫式部文学賞をダブル受賞した衝撃の問題作である。
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主人公の「僕」は中学2年生。毎日学校で、苛烈ないじめを受けている。
自尊心を滅茶苦茶に傷つけられ、血反吐を吐くほどのいじめを受けても、「僕」はやり返すでもなく、ただなされるがままにしている。そのせいか、日増しにいじめはエスカレートしていく。
そんな「僕」に、同じクラスの女子・コジマから手紙が届く。
「わたしたちは仲間です」
そのコジマもまた、女子にいじめられている生徒だった。
「僕」とコジマは友達となり、お互い「いじめられている自分」について考えをめぐらせる。
コジマは言う。
「あの子たちにも、いつかわかるときが来る」、と。
そんな風に、加害者たちが後悔する未来を描く2人だが、ある日「僕」は、教室でいじめの黒幕である少年と対峙する。
その時に「僕」が知らされる、いじめる側の論理とは・・・?
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驚いた。それはもう平衡感覚が失われるほどに。
そして慄いた。
小説を読み、これほど「人間が怖い」と思ったことはない。
まず何に驚いたかというと、同じ人間でも、これほどまでに脳内地図が異なるという点だ。
どんなに暴力を振るわれても、どうしても殴り返すことができない「僕」。
「自分がされて嫌なことはしない」ことを旨とし、「自分」と「他者」とを同一視する「僕」。
ただそこにいるというだけで、簡単に人を完膚なきまでに痛めつけることができる「加害者」。
そして「自分がされること」と「他人にすること」とを全く別次元で考える「加害者」。
さらに衝撃的なことに、その脳内地図の違いは、仲間であるはずの「僕」とコジマとて例外ではなかった。
そして何がそれほど恐ろしかったかというと、その異なる脳内地図ゆえ、この小説の中で加害者は決して後悔などしない、「わかるとき」など永遠に来ないということだ。
日常生活でも、どうにも理解しあえない、溶け合えない人間関係というものはあるが、この小説は、「それは永遠に解消できない」という現実を情け容赦なくつきつける。そこに例え暴力が絡んでいようとも、その法則は変わらないということを惨たらしいまでに示している。
そのやりきれなさに、私は言いようもない恐怖と絶望を感じたのだ。
何という冷酷な小説であろうか。
この小説のページを再度開くことは、正直に言って怖い。逃げ出したくなるほど、捨ててしまいたくなるほど怖い。
しかし、おそらくこれから何度も読み返すことだろう。
互いに理解し合えない人と出会い、苦しむたびに、目をそらさず読み返さなければならない。
そんな義務感に、いま猛烈に駆られている。
何という冷酷な小説であろうか。
この小説のページを再度開くことは、正直に言って怖い。逃げ出したくなるほど、捨ててしまいたくなるほど怖い。
しかし、おそらくこれから何度も読み返すことだろう。
互いに理解し合えない人と出会い、苦しむたびに、目をそらさず読み返さなければならない。
そんな義務感に、いま猛烈に駆られている。
川上未映子の他作品のレビュー→「すべて真夜中の恋人たち」