知の逆転
文学も音楽も芸術も、思い込みと想像と誤解に支えられてきたけれど、たくさんの情報がそれぞれの本来の姿をよく映し出すようになると、思い込みと想像と誤解が減ったぶん、それらの世界が必要以上に大きく見えることもなくなってしまった。
(まえがき引用)
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情報があふれる今、様々な情報に触れているようで、気がつけば自分に都合のよい情報だけを選択している・・・そんな罠に陥っていないか。
私は、しばしばそういった恐怖感に襲われる。
たとえばツイッター。
タイムラインで情報を得たとしても、結局、価値観の合いそうなフォロワー同士の情報交換なので、自分が思っている以上に視野が狭くなっている可能性は十分ある。
そしてある時、自分の考えに対して「へんだぞ」と疑問が頭をよぎっても、自分のキャラクターを変えることの難しさ、リムーヴの恐怖から、せっかく得た「へんだぞ」という気持ちを無駄にしてしまうことも多い。
しかしこの本には、その「へんだぞ」の気持ちを怠ることなく持ち続けた「知の鉄人」たちの、今なお持ち続ける「へんだぞ」が詰まっている。
何と贅沢な一冊であることか。
この贅沢さは、おそらくインタビュアーである著者・吉成真由美氏の手腕によるところが大きいのではないか。
まえがきで、吉成氏は「人と人、人と物、人と雰囲気とのケミストリー」が現代残されている唯一のロマンであると書いているが、この本はまさにそのケミストリーが実現したものといえる。
あるときは「人間の幸福のために望ましい政治形態」について、あるときは「脳と芸術」について、そしてあるときは「ウェブがはらむ危険」について、止まることなく話が広がっていく。
そしてその化学変化を、吉成氏は「わかる人にしかわからなくていい」ではなく、「みんなにわかってほしい」という気持ちで平易な言葉で起こしている。
そうすることで、本書と読者との間で、また眩いばかりのケミストリーを起こす。
この本の周りでは、そんな好循環が起きている。そんな気がしてならない。
そしてその化学変化の始まりは、やはり「へんだぞ」の心。
このような社会は「へんだぞ」。このような医療は「へんだぞ」。このような技術は「へんだぞ」。
そしてその「へんだぞ」に対する「へんだぞ」。
眩暈がしそうなほどの豊富な知識と、それを凌ぐ旺盛な批判精神。
その荒波と格闘しながらこの本を読んでいると、不思議と何かに対して「へんだぞ」と言うことが怖くなくなってくる。
そして気づく。
「知の逆転」を可能にできるのは、何も世界に名をはせた学者や経営者だけではない。
私でも、今すぐにでも、可能なのである。
以前触れたレビューはこちら→「ソロモンの偽証」そして「知の逆転」
本書のトップバッター、ジャレド・ダイアモンド氏の著書のレビューはこちら→「銃・病原菌・鉄」
「昨日までの世界」
(まえがき引用)
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SF作家であり生化学者であるアイザック・アシモフ氏は、「科学で耳にするもっとも胸躍る言葉は『へんだぞ・・・・・・』である」と言ったそうだ。
(2013/05/08 日本経済新聞 朝刊より)
今、話題の「知の逆転」は、まさに「へんだぞ・・・・・・」の宝庫。
世の中の様々な事象に対して、まず「へんだぞ」と疑問をもち、さらにその疑問・批判に対しても「へんだぞ」という疑問を投げかける。
たとえば民主主義は、本当に理想的な社会なのか。
独裁者は、本当に悪なのか。
インターネットは集合知なのか集合愚なのか。
たとえ「愚」であったとしたら、なくすべきなのか。
そして、真実は常に正しいのか。
(2013/05/08 日本経済新聞 朝刊より)
今、話題の「知の逆転」は、まさに「へんだぞ・・・・・・」の宝庫。
世の中の様々な事象に対して、まず「へんだぞ」と疑問をもち、さらにその疑問・批判に対しても「へんだぞ」という疑問を投げかける。
たとえば民主主義は、本当に理想的な社会なのか。
独裁者は、本当に悪なのか。
インターネットは集合知なのか集合愚なのか。
たとえ「愚」であったとしたら、なくすべきなのか。
そして、真実は常に正しいのか。
情報があふれる今、様々な情報に触れているようで、気がつけば自分に都合のよい情報だけを選択している・・・そんな罠に陥っていないか。
私は、しばしばそういった恐怖感に襲われる。
たとえばツイッター。
タイムラインで情報を得たとしても、結局、価値観の合いそうなフォロワー同士の情報交換なので、自分が思っている以上に視野が狭くなっている可能性は十分ある。
そしてある時、自分の考えに対して「へんだぞ」と疑問が頭をよぎっても、自分のキャラクターを変えることの難しさ、リムーヴの恐怖から、せっかく得た「へんだぞ」という気持ちを無駄にしてしまうことも多い。
しかしこの本には、その「へんだぞ」の気持ちを怠ることなく持ち続けた「知の鉄人」たちの、今なお持ち続ける「へんだぞ」が詰まっている。
何と贅沢な一冊であることか。
この贅沢さは、おそらくインタビュアーである著者・吉成真由美氏の手腕によるところが大きいのではないか。
まえがきで、吉成氏は「人と人、人と物、人と雰囲気とのケミストリー」が現代残されている唯一のロマンであると書いているが、この本はまさにそのケミストリーが実現したものといえる。
あるときは「人間の幸福のために望ましい政治形態」について、あるときは「脳と芸術」について、そしてあるときは「ウェブがはらむ危険」について、止まることなく話が広がっていく。
そしてその化学変化を、吉成氏は「わかる人にしかわからなくていい」ではなく、「みんなにわかってほしい」という気持ちで平易な言葉で起こしている。
そうすることで、本書と読者との間で、また眩いばかりのケミストリーを起こす。
この本の周りでは、そんな好循環が起きている。そんな気がしてならない。
そしてその化学変化の始まりは、やはり「へんだぞ」の心。
このような社会は「へんだぞ」。このような医療は「へんだぞ」。このような技術は「へんだぞ」。
そしてその「へんだぞ」に対する「へんだぞ」。
眩暈がしそうなほどの豊富な知識と、それを凌ぐ旺盛な批判精神。
その荒波と格闘しながらこの本を読んでいると、不思議と何かに対して「へんだぞ」と言うことが怖くなくなってくる。
そして気づく。
「知の逆転」を可能にできるのは、何も世界に名をはせた学者や経営者だけではない。
私でも、今すぐにでも、可能なのである。
以前触れたレビューはこちら→「ソロモンの偽証」そして「知の逆転」
本書のトップバッター、ジャレド・ダイアモンド氏の著書のレビューはこちら→「銃・病原菌・鉄」
「昨日までの世界」