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困難な成熟  内田樹

「こめんで済む話」はこの世にない、と。そう思っていたほうが無難だと思います。
(本文引用)
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 本書のサブタイトルは、「14歳から読みたい自由と勇気の人生案内」。確かにこれは、若い時に読んでおきたい本だ。

 年齢が高くなり、ライフステージが進むにつれて、自分の身ひとつで様々なトラブルと向き合わなくてはならなくなる。
 そうなる前に本書を読んでおけば、より優しく、より豊かに、そしてより楽に生きることができることだろう。
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 この本のテーマは「成熟」だ。著者は、人にとって成熟とは何か、大人になるとはどういうことかを多種多様な観点から探り、その手法とヒントを伝授していくのだが、どれも目から鱗がボロボロと落ちるものばかり。



 「責任を取ることは不可能」「スカート丈膝下5センチという校則には、人類学的叡智が潜んでいる」「動物のなかで労働をしているのは人間だけ」「トラブルは自分が招きよせている」など、一瞬キョトンとしてしまいつつも、大いにうなずける提言のオンパレードなのだ。

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先生はえらい 内田樹

 「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。
 

(本文引用)
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 子どもが小学校に入り、「先生」というものを改めて考えたいと思い、この本を手に取った。
 どんな先生が、良い先生なのか。厳しい先生か、優しい先生か。どんな授業をして、どんな指導をしてくれる先生が良いのか。
 長く教壇に立ち、現代の若者らに鋭くメスを入れつづける内田樹氏に、その教えを乞おうとした。
 しかしそこに書かれていたのは、私が予想していたのとは全く違う「先生像」だった。
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 内田氏は、まず読者にこう言い切る。

 「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しません。


 これは、世の中に「理想の先生像」というものはなく、「あなたが『えらい』と思った人が、あなたの先生」という意味である。

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呪いの時代 内田樹

 僕たちの時代にこれほど利己的で攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が「自分をあまりに愛している」からではありません。逆です。自分を愛するということがどういうことかを忘れてしまったせいです。
(本文引用)
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 今、憲法解釈の変更が論議を呼んでいる。
 
 現在、憲法9条の制約により集団的自衛権が行使できない。そこで、9条の解釈を変更・拡大することで集団的自衛権を認めようとしているのだ。
 私自身は、これには強い不安を感じる。恒久平和主義が崩れ、常に臨戦態勢の国になってしまうのではないか。
 それより何より、政治主導でそんなことを簡単に認めてしまって良いのだろうか。
 私は、この「憲法解釈変更」は変更どころじゃない、何かを「破壊」する行為だと感じている。

 さらにそれは、何かを「呪う」行為であるということを、本書を読み悟った。


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もういちど村上春樹にご用心 内田樹

 さて、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ後に、改めてこの本を読んでみた。

 「もういちど村上春樹にご用心」
 
 どことなく往年のアイドル歌手を思わせるフレーズであるが、本書は2007年刊行「村上春樹にご用心」の改訂新版である。

 今や日本屈指の村上春樹評論家である内田樹氏による「村上春樹論」をまとめたものであるが、「色彩を持たない~」を読んだ後に読み直すと、また味わい深い。
 なぜなら、符合している点が非常に多いからだ。

 たとえば、

 「ごく平凡な主人公の日常に不意に『邪悪なもの』が闖入してきて、愛するものを損なうが、非力で卑小な存在である主人公が全力を尽くして、その侵入を食い止め、『邪悪なもの』を押し戻し、世界に一時的な均衡を回復する」(本文引用)

 といった特徴などそのものズバリだし、村上氏が柴田元幸氏との対談で「小説というのは三者協議じゃなくちゃいけない」と語っているところなども、物語と大いに重なっている。
 この本により、私は村上氏の新刊をより深く楽しく味わうことができた。ちょっとした文学探偵気分といったところか。

 本書には、その他「村上春樹とヘミングウェイの共通点」、「村上文学の文体が奏でる音」、「ある作品の重大な瑕疵」等々、思わず「おおっ!」と声を上げてしまう薀蓄(?)が満載。
 さらに、内田先生執念の「ノーベル賞祝賀予定稿」も掲載。

 そのどれもこれもが、内田先生の「お願いだから、わかってくれよ!」という叫びが聞こえてきそうな情熱に満ちている。(内田樹著「街場の文体論」より)

 村上春樹作品を読まなくてもハルキストになってしまいそうな本書に、何卒ご用心を・・・。

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内田樹の他作品のレビュー→「街場の文体論」
             「寝ながら学べる構造主義」
             「下流志向 学ばない子供たち 働かない若者たち」

「街場の文体論」

 あのね、人間というのはいつだって「誰か自分ではない人間」が横にいて、その人との共同作業じゃないと、一言だって口に出来ないもんなんですよ。
(本文引用)
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 私たちは、毎日実に多くのメッセージを受け取っている。
 しかしそのなかには、心に届くものと届かないものがある。
 その2つは、一体何が違うのだろう。

 今回ご紹介する「街場の文体論」は、仏文学者であり武道家でもある内田樹氏が神戸女学院大学で行った、「クリエイティブ・ライティング」の授業内容を収めたものだ。
 そしてこの講義の鍵は、ずばり「心に届く言葉と届かない言葉を分けるものとは何か」である。

 それについて内田氏は、まさに学生たちの心に届かせようと、全身全霊でもがくようにあがくように熱く語っている。


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 まず全編を通じて主張されているのは、「受け手がいてこその送り手」という一点だ。

 文章でも口頭でも、何より大切なのは「受け手を敬う」ということである。
 たとえば街の風景を描写する際にも、読み手がその情景をありありと思い浮かべることができるように書かなくてはならない。
 そして上手い作家というのは、それだけで、時代の移り変わりや人々の心まで説明しきることができる。
 内田氏は、その例として橋本治や三島由紀夫の文章を例にとって説明していく。

 一方で内田氏が激高しながら語ったのは、こんな例だ。
 フランスで学位をとってきた若者が、日本国内での学会において、フランス語で発表したという。
 内田氏は、その若者について「これが理解できるやつ以外は聴くなよ」という態度であると感じ、頭を抱えたという。
 つまりそのような態度は、受け手を敬う心、いやそれどころか学者が持つべき「研究で得た知見を人々に贈与する」心を失っているのである。

 これについては私自身もしばしば感じる。

 たとえば、以前から「悪文」として名高い六法全書などは、書かれた時代もあるであろうが、まさしく「これが理解できるやつ以外は読むなよ」といった態度で書かれている。
 そして政府の会見、年金や保険等さまざまな制度、どれもこれも「私たち一般市民を度外視した」難解さで表現されている。
 国民を視野に入れずに、いったい誰に向けて書かれているのかわからないが、これが「お願いだからわかってほしい」という魂の込もった言葉であったなら、たとえ制度自体がややこしかったとしても、どれほど人々の気持ちは安らくだろう。

 わかりにくい制度を、わかりにくい言葉で表現するから、国民不在と受け取られるのだ。我々が見下された気分になるのだ。

 「小説じゃないんだから魂など込めなくても・・・」と思われるかもしれないが、一般の人に幅広く知ってもらうべきものこそ、隅々まで魂を込めて表現すべきだ。
 本書を読み、改めて「世の中のわかりにくいもの」に対する見方が変わり、真剣勝負で対峙する気になってきた。

 さらに本書で面白かったのは、送り手と受け手は、決して「他人同士とは限らない」という点だ。
 
 その例として挙げられるのが、普及しそうでなかなか普及しない「電子書籍」だ。
 本だとコンスタントに何十万部と売れる人気作家が、電子書籍だと驚くほど売れない。
 
 それはなぜか。

 何と、人は本を読んでいる時に「自分の中にいる他人と会話をしているから」だというのだ。
 
 片方の手で「読み終えた紙の厚さ」を、そしてもう片方の手で「これから読む紙の厚さ」を、人は無意識に量っている。
 その、手に感じる分量で人はストーリー展開を予測し、「読み中の私」と「読み終えた私」とが対話しているという。そしてそのような対話がないと、人間は安心して行動ができないというのだ。
 それが「紙の本が廃れない理由」と本書では説かれている。

 この解説に、私は思わず自分の両手を見つめ、そして絶句した。
 私は毎日、あらゆる場面で自分の中の他人と対話していたのだ。

 テレビドラマも、「あと7~8分で終わるから、これ以上犯人は出てこないな」と推測しながら観ている。
 料理で大根を切っているときでも、残りの量を目と手で測りながら包丁で切っている。
 これが、いつ果てるとも知れぬものだったら、到底取り組むことはできないだろう。
 我々は、終わりの予測ができるから安心して生活できているのだ。
 この解説には、真に虚を突かれた思いがし、もはや脱帽である。
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 私たちは、自分でない他者、そして自分の中にある他者の存在を無視して生きることはできない。

 この「街場の文体論」は、文章に限らず生活全てにおいて、他者との対話の重要性を訴えている。
 そして対話の際には、何があっても、受け手に対して「お願いだからわかってほしい」という気持ちで伝えること。どんな美辞麗句よりも、それが肝要なのだ。

 そして、改めて気がつく。
 この講義こそが、内田氏が受講者に対して「お願いだからわかってほしい」という魂を込めた授業だったということを。
 「心に届く言葉」そのものだったということを。
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内田樹の他作品のレビューはこちら→「下流志向 学ばない子供たち 働かない若者たち」
                     →「寝ながら学べる構造主義」

「寝ながら学べる構造主義」

 世界は自分の目に見えているのと同じように他のすべての人にとっても見えているのだろうか。自分にとって「自明」であることは、他の人にとっても等しい確実性をもって自明なのだろうか。(本文引用)
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 最近、尖閣諸島の命名をめぐり、日中関係がまたもギクシャクしている。
 日本政府が、尖閣諸島を含む日本近海の無人島に名前をつけたところ、すぐさま中国政府から独自の名称が発表され、自国領であると主張。
 それに対し、日本側も「中国の主張は全く受け入れることはできない」とし、平行線の構えだ。

 日本と中国のみならず、自国の領地をめぐる問題は、世界中で絶え間なく起こっている。

 そしてそのほとんどが、両者譲ることなく長年引き伸ばされ、時に古傷がうずくようにうごめいては両国間をピリピリとさせる。

 それにしても、なぜこのような問題が常に起きるのだろうか。
 それはおそらく、どちらが正しくて、どちらが間違っていると言えないものだからであろう。

 是非を判断できない理由は、「地理的にどちらが近いとも言えないから」などといった物理的・客観的なことではない。

 そもそも私たちは正しい判断をすることができない、つまり「私たちの思想や行動は、自身の生活する社会の枠組みにとらわれている」からなのだ。

 人間の考え方や行動を、その背後にある時代・文化の枠組み=構造から分析することを「構造主義」という。

 その構造主義を極めてわかりやすく、「縁側でお茶でも飲みながら」(あとがき引用)解説してくれたのが、この「寝ながら学べる構造主義」である。


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 戦争で、なぜ多くの日本人は国に命を捧げたのか。
 なぜ罪のない何万人ものユダヤ人が殺されたのか。
 なぜあの虐殺はあったのか・・・etc.
 そして今尚、加害者側とされる国が、「あの行動は正しかった」というような発言をすることがある。
 多くの人、特に若い人は、そのことに疑問に感じるだろう。
 私も疑問を感じ続けている一人だ。

 しかし、この本を読んで非常に合点がいった。
 その時代に、「構造主義」思想が浸透していなかったからなのだ。

 あらゆる人間の思想について、「普遍的に正しいということはまずあり得ない」ということと、「自由なようでいて、必ず無意識のうちに社会構造や時代に制約されている」ということが認められるようになったのは、ここ30~40年ほど。驚くほど最近のことなのだ。

 この変化は本書の中で、人間観における「天動説」から「地動説」への移行といわれるほどの大転換だったと書かれている。

 事実、1950年代のフランス対アルジェリアの国際紛争において、「フランスとアルジェリア、どちらにも一理あり、どちらにも間違いはある」と相対的な見方を語ったのは、「私の知る限り、アルベール・カミュただ一人」であり、「カミュはこのときほとんど孤立無援だった」と内田氏はいう。

 そして恐ろしいことに、人間は「自分がどのように思考しているか」を意識していない
 
 人は、無意識のうちに、自分にとって都合の悪いことは目に入らないようにしている。都合の悪いことを意識することは苦痛なので、それについては考えないようにしている。

 例えばいたずらっ子が、「親には絶対にばれない」と思い込んで、ちょっとしたいたずらをする。しかしたいてい、親にあっさり見抜かれて叱られる。子どもとしては「なぜわかったんだろう?」と不思議に思う。
 それは、この子どもが「自分がいたずらっ子であるという事実を、親は知っている」という情報をシャットアウトしてしまっているからなのだ。
 
 フロイトは、このシャットアウトを「抑圧」のメカニズムと名づけているが、本書ではこの「抑圧」という人間の愚かしい面を、狂言の演目、親による虐待など多方面から噛み砕いて解説している。
 そして哲学の素人である私は、そのように同一の目線で語られれば語られるほど、自分の考えや意識はどれほど偏狭的なのだろうかとゾッとしてしまうである。

 さらに人間の不思議な点は、「権力を理不尽にふるう人間には畏れを抱く」という心理構造をもっていることだ。
 「権力を理不尽にふるう人間」すなわち「暴君」であるが、このようにルールも規則もなく権力をふるう者は、次に何をしでかすかわからないために、人々は屈服してしまうのだという。

 言われてみれば確かにその通りであり、本書を読んでいると、例えば言論の弾圧(「プラハの春」参照)や帝国主義、宗教によるテロ、冤罪、いじめ、家庭内の虐待なども全て「我々は構造主義的に物事を考えさせられている」で説明でき、ストンと腑に落ちた気持ちになる。

 かくも人間とは救いのないものか、と暗澹たる気持ちになるが、諦めることなかれ。

 人間には、自己客観視という能力が備わっている。

 本書中で「人間は『他者の視線』になって『自己』を振り返ることができますが、動物は『私の視線』から出ることはできないので、ついに『自己』を対象的に直観することができないのです」とされている。
 
 これはすなわち、人間が人間であるためには、自分を絶対と思ってはいけない。
 自分自身を投げ入れられた環境から捉え、己の思想はそれに囚われているということを認識し、他方面から行動を振り返らねばならない、ということだ。

 戦争や独裁、暴動、弾圧等はいわゆる集団浅慮の最たるものと思われるが、このように「自分を主体」とするのではなく、「自分の置かれた環境・構造を主体」とすることで、やや短絡的かもしれないが、可能な限り抑えられるのではないだろうか。

 「寝ながら学べる」と謳うこの哲学書。
 私は寝ながら読んでいるうちに、いつの間にか身を起こしていた。
 タイトルとは逆に、目の覚める一冊である。

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この著者の他作品レビューを見る→「下流志向 学ばない子供たち 働かない若者たち」

「下流志向 学ばない子供たち 働かない若者たち」

新聞などで書評や映画評を読んでいると、しばしばこんな表現を目にする。

「値段の価値はあり」

だいたい最高評価は「一食抜いてでも!」といった表現になっており、次が「読み応えあり」、そして最低は「時間があれば・・・」といったところか。
「値段の価値はあり」というのは、だいたい下から2番目ぐらいの評価だ。
観なきゃ損するってわけでもないし、かといって観れば得するというほどでもない。
その本を誰かが貸してくれたり、映画なら鑑賞券でも手に入ればラッキーというぐらいのものだ。

そして気がつくと、多くの人は支払った対価に見合った行動をしようとする。
書店で1800円で買った本ならば、少々面白くなくても何とか読了しようとする。
これが古本屋で100円で買った本だと、途中で読むのを止めようとする。
さらに図書館で借りた場合などだと、その本を手にしたこと自体を忘れてしまいそうになり、手もつけないまま返却期限ということもある。
これが映画だと、当選した試写会だと120分中90分は寝てました、なんてことになる。

つまり、自分が支払った金額によって、支払ったものに対する態度を変えてしまう、ということだ。

そこで、この「下流志向」だ
この本は、いわゆるニートや、またそれ以前の「学ぼうとしない子供たち」について、なぜそのようになってしまうのかを多角的に考察したものである。

本全体を通して主張されていたのが、等価交換の考え方しか持たずに生きていくことの恐ろしさ、哀れさである。

昔の子供たちは、お抱え運転手がいるようなお金持ちにでも生まれない限り、まず家庭内労働、いわゆるお手伝いを相当量行うことが普通であった。
しかし現在の子供たちは、家事労働をする機会がほとんどない。

これはつまり、昔の子供は「労働主体」として、そして今の子供は「消費主体」として、家族という最小単位の社会に参加しているということを意味する。
よく主婦の家事労働を賃金に換算すると・・・といった話があるが、家事というのは日々の生活を少しでも楽しく過ごしやすくしようとするものであり、目に見えて報酬があるわけでもない。
少々気障な言い方をすれば、家族の笑顔が報酬みたいなものである。
時として虚しくなることもあるだろう。

しかし、それを知らずに生きてきたらどうなるか?
その結果が、学級崩壊であり、学力低下であり、果ては児童虐待でもあると説く。
授業に対して10分間ぐらいの価値がないと思えば、あくまでお金を支払う消費主体感覚をもつ子供は、残りの40分をおしゃべりや立ち歩きで過ごす。

「だって、この授業にはそれだけの価値しかないから」
(あれ?何かシャンプーのCMみたいだな)
「だって、数学を学ぶ価値がわからないから。何の役に立つかわからないから」
そして、言うことを聞かず泣き叫ぶ子供に対しては、
「だって、私の努力に、この子が答えてくれないから」

・・・・・

ある意味虚しい労働主体を経験せず、早くから消費主体で育った人間は、全てを等価交換で考えようとする。
よって、学ぶ意欲も働く意欲もそがれてゆく。
だって、自分の消費に、全てが見合わないから。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も言わない。
だって、そうやって口を開くだけの報酬が返ってくるわけじゃないから・・・。

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私はこの本を読み、背筋が凍る思いがした。
小さな子供がいるので、子供にそのような価値観を植えつけてはならない!と思いつつも、
果たして自分はどうであろうか。
等価交換抜きに、子供や家族と向き合えているだろうか。
いやそもそも社会と向き合えているだろうか。

自分の人生や周囲の人々に
「値段の価値はあり」
なんて考えてはいないだろうか・・・と、何十年も培われてきた己の思考傾向が怖く感じられてきた。
はぁ・・・。

ちなみに本書を読んでから新聞やニュースを読むと、報じられている事件や社会現象の背景が、おぼろげながら見えてくる。

消費主体で生きてきたことによる等価交換意識ですべてを説明できるわけではないであろうが、常にそこにヒントは隠されているような気がするのだ。


そういった意味でも本書は、もし等価交換によって評価することを許してもらえるならば、
「一食抜いてでも!」
である。


プロフィール

アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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