「それをお金で買いますか」
民主主義には完璧な平等が必要なわけではないが、市民が共通の生を分かち合うことが必要なのは間違いない。大事なのは、出自や社会的立場の異なる人たちが日常生活を送りながら出会い、ぶつかり合うことだ。なぜなら、それがたがいに折り合いをつけ、差異を受け入れることを学ぶ方法だし、共通善を尊ぶようになる方法だからだ。(本文引用)
________________________________
しかし今や、その不平等が、生活のどんなに狭い隙間にも入り込んでくる。
高速道路や病院の待合室における行列への割り込み、ダフ屋からのチケット購入・・・。
お金を払うことで行列に並ぶ手間と時間を省き、一足飛びに目的を果たすことができる権利を買う。
金額は小さなものかもしれないが、日常生活の至るところに市場の原理は忍び込み、お金を持っている者が得をするシステムは横行しているのだ。
さらに問題なのは、お金による人間行動の「腐敗」だ。
「お金と腐敗」といえば、汚職や贈収賄などが即座に思いつくが、これについても「不平等」と同じく生活の至るところにはびこっている。
たとえば、こんな例がある。
「保育園のお迎えに間に合わなかった人」に対し、それまでは保育士がボランティアで子供に付き添い、保護者の迎えを待っていた。
そこで保育園側は「お迎えの遅刻」に罰金を設けたのだが、さてどうなったか。
何と、遅刻が増えたというのである。
そう、罰金であろうと何であろうと、「お金さえ払えば遅れてもいい」という感覚に保護者たちが陥り、それまで持っていた後ろめたさを感じることなく気軽に遅刻するようになってしまったのだ。
さらには、図書館で借りた本の返却が遅れるよりも、レンタルビデオ屋で借りたビデオの延滞のほうが罪悪感が少ないという結果も出た。これも「お金」を払えば事が足りるからだ。
「お金を払えばチャラになる(ような気がする)」・・・そのような、お金を免罪符として堂々と行われる違反行為は、身近な例にとどまらず、排出権取引やカーボンオフセットといった世界的な環境問題にまで及ぶ。
いよいよ、口の中がザラついてきたのではないだろうか。
本書には、このような目を覆いたくなるような例が次々と紹介されており、だんだん気分がよどんでくる。
にも関わらず、どこか読後感が爽やかなのは、数多の事例において「多くの人がお金で買えないもの、侵すことができない領域をもっている」ということを示してくれているからだ。
美しい自然を楽しむためのキャンプ場宿泊券を、高額で売りつけるダフ屋。
子供の教育費を稼ぐために、自らの額に企業広告の刺青を入れる母親。
産まれてくる子供の名前をオークションにかけ、企業にわが子の命名権を与えることで広告料をとろうとした夫婦。
成績アップの特典として、ファストフードの無料飲食券を配ろうとした学校。
これらの事例は、いずれも新聞や住民に猛烈に非難され、中には取りやめになったものもあるという。
多くの人から非難の声があがった、ということは、多くの人がそれらについて「お金で聖域を汚された」と考えた、ということだ。このような事例は、お金にまみれたエピソードのなかの一筋の光となり、読者に希望を与えてくれる。
そうしていつのまにか、自分の内なる「お金で解決できるもの・できないもの」の基準が浮かび上がってくる。
生活のためには、自分の体をどう使おうと自由と思えるか?
お金さえ払えば、迷惑行為を反故にできると思うか?
誰もが受けるべき公教育に、お金の力が及んでも良いと考えるか?
お金のある人が得をしてもよい、と思えるのはどのような場合か?
自分は、どんなときにお金を払ってでも権利を得たいと考えるか?
いずれも結局は感覚の問題であり、何が正しくて何が悪いか、という結論は出ないかもしれない。
ならば、このような議論は無駄なのか?不毛なのか?

ことあるごとに、「それをお金で買いますか?」と己に問いかけてみよう。
そのときにもし、口の中がザラついたら、「それ」はきっとあなたの尊厳を貶めるものに違いない。
そしてそのザラつきは、あなたの中に人としての「誇り」がしっかりと根づいているという証明になるだろう。
他のマイケル・サンデル関連書籍のレビューはこちら→「ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業」
________________________________
マイケル・サンデルの本は、常に、口の中をザラつかせる。
正確には、ザラついた感覚を呼び覚ましてくれる、と言ったほうがよいだろうか。
大ベストセラー「これからの『正義』の話をしよう」では命の天秤や財の再分配、「大震災特別講義 私たちはどう生きるのか」では、「原発に行くのに適当な人材」などについて考えてきた。
そうした数々の議論を通して、私は「自分の中で譲れるもの・譲れないもの」、そして「譲らざるを得ないのかもしれないし、人によっては譲れるのかもしれないが、自分自身はできれば譲りたくないもの」=「口の中をザラリとさせるもの」に気づかされる。
今回ご紹介する「それをお金で買いますか」で考えるのは、「人間は、どこまでお金で生活を思い通りにするか」だ。
少々下品な言い方をすれば「どこまでお金にモノを言わせるか」といったところだが、サンデル教授ならではの豊富な事例の提供により、実に多方面から面白く、そして深く悩み考えることができる。
__________________________
まず、なぜそもそもこのような議論が必要なのか。
それは、現代が「ほぼあらゆるものが売買される時代」(本文引用)であり、「売買の論理はもはや物的財貨だけに当てはまるものではなく、生活全体を支配するようになっている」からだ。
広い邸宅や高級車、宝飾品を買うのにお金が必要というだけならば、さして問題はない。
問題なのは、教育、医療、安全な住まいといった必要最低限の生活まで「金次第」、つまり市場の手が伸びていることなのだ。
そんな時代だからこそ、いまいちど市場主義について、そして「自分は本当にそんな生き方がしたいのかどうか」について考えてみるべきだ、とサンデル氏は言う。
ではなぜ、お金が絡むと問題が起こるのか。
その理由は大きく2つ、「不平等」と「腐敗」である。
不平等については、わかりやすいであろう。富める者と貧しき者との間で起こる不平等だ。
正確には、ザラついた感覚を呼び覚ましてくれる、と言ったほうがよいだろうか。
大ベストセラー「これからの『正義』の話をしよう」では命の天秤や財の再分配、「大震災特別講義 私たちはどう生きるのか」では、「原発に行くのに適当な人材」などについて考えてきた。
そうした数々の議論を通して、私は「自分の中で譲れるもの・譲れないもの」、そして「譲らざるを得ないのかもしれないし、人によっては譲れるのかもしれないが、自分自身はできれば譲りたくないもの」=「口の中をザラリとさせるもの」に気づかされる。
今回ご紹介する「それをお金で買いますか」で考えるのは、「人間は、どこまでお金で生活を思い通りにするか」だ。
少々下品な言い方をすれば「どこまでお金にモノを言わせるか」といったところだが、サンデル教授ならではの豊富な事例の提供により、実に多方面から面白く、そして深く悩み考えることができる。
__________________________
まず、なぜそもそもこのような議論が必要なのか。
それは、現代が「ほぼあらゆるものが売買される時代」(本文引用)であり、「売買の論理はもはや物的財貨だけに当てはまるものではなく、生活全体を支配するようになっている」からだ。
広い邸宅や高級車、宝飾品を買うのにお金が必要というだけならば、さして問題はない。
問題なのは、教育、医療、安全な住まいといった必要最低限の生活まで「金次第」、つまり市場の手が伸びていることなのだ。
そんな時代だからこそ、いまいちど市場主義について、そして「自分は本当にそんな生き方がしたいのかどうか」について考えてみるべきだ、とサンデル氏は言う。
ではなぜ、お金が絡むと問題が起こるのか。
その理由は大きく2つ、「不平等」と「腐敗」である。
不平等については、わかりやすいであろう。富める者と貧しき者との間で起こる不平等だ。
しかし今や、その不平等が、生活のどんなに狭い隙間にも入り込んでくる。
高速道路や病院の待合室における行列への割り込み、ダフ屋からのチケット購入・・・。
お金を払うことで行列に並ぶ手間と時間を省き、一足飛びに目的を果たすことができる権利を買う。
金額は小さなものかもしれないが、日常生活の至るところに市場の原理は忍び込み、お金を持っている者が得をするシステムは横行しているのだ。
さらに問題なのは、お金による人間行動の「腐敗」だ。
「お金と腐敗」といえば、汚職や贈収賄などが即座に思いつくが、これについても「不平等」と同じく生活の至るところにはびこっている。
たとえば、こんな例がある。
「保育園のお迎えに間に合わなかった人」に対し、それまでは保育士がボランティアで子供に付き添い、保護者の迎えを待っていた。
そこで保育園側は「お迎えの遅刻」に罰金を設けたのだが、さてどうなったか。
何と、遅刻が増えたというのである。
そう、罰金であろうと何であろうと、「お金さえ払えば遅れてもいい」という感覚に保護者たちが陥り、それまで持っていた後ろめたさを感じることなく気軽に遅刻するようになってしまったのだ。
さらには、図書館で借りた本の返却が遅れるよりも、レンタルビデオ屋で借りたビデオの延滞のほうが罪悪感が少ないという結果も出た。これも「お金」を払えば事が足りるからだ。
「お金を払えばチャラになる(ような気がする)」・・・そのような、お金を免罪符として堂々と行われる違反行為は、身近な例にとどまらず、排出権取引やカーボンオフセットといった世界的な環境問題にまで及ぶ。
いよいよ、口の中がザラついてきたのではないだろうか。
本書には、このような目を覆いたくなるような例が次々と紹介されており、だんだん気分がよどんでくる。
にも関わらず、どこか読後感が爽やかなのは、数多の事例において「多くの人がお金で買えないもの、侵すことができない領域をもっている」ということを示してくれているからだ。
美しい自然を楽しむためのキャンプ場宿泊券を、高額で売りつけるダフ屋。
子供の教育費を稼ぐために、自らの額に企業広告の刺青を入れる母親。
産まれてくる子供の名前をオークションにかけ、企業にわが子の命名権を与えることで広告料をとろうとした夫婦。
成績アップの特典として、ファストフードの無料飲食券を配ろうとした学校。
これらの事例は、いずれも新聞や住民に猛烈に非難され、中には取りやめになったものもあるという。
多くの人から非難の声があがった、ということは、多くの人がそれらについて「お金で聖域を汚された」と考えた、ということだ。このような事例は、お金にまみれたエピソードのなかの一筋の光となり、読者に希望を与えてくれる。
そうしていつのまにか、自分の内なる「お金で解決できるもの・できないもの」の基準が浮かび上がってくる。
生活のためには、自分の体をどう使おうと自由と思えるか?
お金さえ払えば、迷惑行為を反故にできると思うか?
誰もが受けるべき公教育に、お金の力が及んでも良いと考えるか?
お金のある人が得をしてもよい、と思えるのはどのような場合か?
自分は、どんなときにお金を払ってでも権利を得たいと考えるか?
いずれも結局は感覚の問題であり、何が正しくて何が悪いか、という結論は出ないかもしれない。
ならば、このような議論は無駄なのか?不毛なのか?
いや、決してそうではない。
自分の中にある「お金で侵すことのできない聖域」に対する感覚が鈍くなっていないか、気づかぬうちに低きに流れていないか、を考えさせてくれるという点で、この議論は非常に価値があるのだ。
自分の中にある「お金で侵すことのできない聖域」に対する感覚が鈍くなっていないか、気づかぬうちに低きに流れていないか、を考えさせてくれるという点で、この議論は非常に価値があるのだ。

ことあるごとに、「それをお金で買いますか?」と己に問いかけてみよう。
そのときにもし、口の中がザラついたら、「それ」はきっとあなたの尊厳を貶めるものに違いない。
そしてそのザラつきは、あなたの中に人としての「誇り」がしっかりと根づいているという証明になるだろう。
他のマイケル・サンデル関連書籍のレビューはこちら→「ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業」