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「それをお金で買いますか」

 民主主義には完璧な平等が必要なわけではないが、市民が共通の生を分かち合うことが必要なのは間違いない。大事なのは、出自や社会的立場の異なる人たちが日常生活を送りながら出会い、ぶつかり合うことだ。なぜなら、それがたがいに折り合いをつけ、差異を受け入れることを学ぶ方法だし、共通善を尊ぶようになる方法だからだ。(本文引用)
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 マイケル・サンデルの本は、常に、口の中をザラつかせる。
 正確には、ザラついた感覚を呼び覚ましてくれる、と言ったほうがよいだろうか。

 大ベストセラー「これからの『正義』の話をしよう」では命の天秤や財の再分配、「大震災特別講義 私たちはどう生きるのか」では、「原発に行くのに適当な人材」などについて考えてきた。

 そうした数々の議論を通して、私は「自分の中で譲れるもの・譲れないもの」、そして「譲らざるを得ないのかもしれないし、人によっては譲れるのかもしれないが、自分自身はできれば譲りたくないもの」「口の中をザラリとさせるもの」に気づかされる。

 今回ご紹介する「それをお金で買いますか」で考えるのは、「人間は、どこまでお金で生活を思い通りにするか」だ。
 少々下品な言い方をすれば「どこまでお金にモノを言わせるか」といったところだが、サンデル教授ならではの豊富な事例の提供により、実に多方面から面白く、そして深く悩み考えることができる。
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 まず、なぜそもそもこのような議論が必要なのか。
 それは、現代が「ほぼあらゆるものが売買される時代」(本文引用)であり、「売買の論理はもはや物的財貨だけに当てはまるものではなく、生活全体を支配するようになっている」からだ。

 広い邸宅や高級車、宝飾品を買うのにお金が必要というだけならば、さして問題はない。
 問題なのは、教育、医療、安全な住まいといった必要最低限の生活まで「金次第」、つまり市場の手が伸びていることなのだ。
 そんな時代だからこそ、いまいちど市場主義について、そして「自分は本当にそんな生き方がしたいのかどうか」について考えてみるべきだ、とサンデル氏は言う。

 ではなぜ、お金が絡むと問題が起こるのか。

 その理由は大きく2つ、「不平等」「腐敗」である。

 不平等については、わかりやすいであろう。富める者と貧しき者との間で起こる不平等だ。





 
 しかし今や、その不平等が、生活のどんなに狭い隙間にも入り込んでくる。
 
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 高速道路や病院の待合室における行列への割り込み、ダフ屋からのチケット購入・・・。
 お金を払うことで行列に並ぶ手間と時間を省き、一足飛びに目的を果たすことができる権利を買う。

 金額は小さなものかもしれないが、日常生活の至るところに市場の原理は忍び込み、お金を持っている者が得をするシステムは横行しているのだ。

 さらに問題なのは、お金による人間行動の「腐敗」だ。
 「お金と腐敗」といえば、汚職や贈収賄などが即座に思いつくが、これについても「不平等」と同じく生活の至るところにはびこっている。

 たとえば、こんな例がある。

 「保育園のお迎えに間に合わなかった人」に対し、それまでは保育士がボランティアで子供に付き添い、保護者の迎えを待っていた。
 そこで保育園側は「お迎えの遅刻」に罰金を設けたのだが、さてどうなったか。

 何と、遅刻が増えたというのである。

 そう、罰金であろうと何であろうと、「お金さえ払えば遅れてもいい」という感覚に保護者たちが陥り、それまで持っていた後ろめたさを感じることなく気軽に遅刻するようになってしまったのだ。

 さらには、図書館で借りた本の返却が遅れるよりも、レンタルビデオ屋で借りたビデオの延滞のほうが罪悪感が少ないという結果も出た。これも「お金」を払えば事が足りるからだ。

 「お金を払えばチャラになる(ような気がする)」・・・そのような、お金を免罪符として堂々と行われる違反行為は、身近な例にとどまらず、排出権取引やカーボンオフセットといった世界的な環境問題にまで及ぶ。
 いよいよ、口の中がザラついてきたのではないだろうか。

 本書には、このような目を覆いたくなるような例が次々と紹介されており、だんだん気分がよどんでくる。
 にも関わらず、どこか読後感が爽やかなのは、数多の事例において「多くの人がお金で買えないもの、侵すことができない領域をもっている」ということを示してくれているからだ。

 美しい自然を楽しむためのキャンプ場宿泊券を、高額で売りつけるダフ屋。
 子供の教育費を稼ぐために、自らの額に企業広告の刺青を入れる母親。
 産まれてくる子供の名前をオークションにかけ、企業にわが子の命名権を与えることで広告料をとろうとした夫婦。
 成績アップの特典として、ファストフードの無料飲食券を配ろうとした学校。

 これらの事例は、いずれも新聞や住民に猛烈に非難され、中には取りやめになったものもあるという。 
 多くの人から非難の声があがった、ということは、多くの人がそれらについて「お金で聖域を汚された」と考えた、ということだ。このような事例は、お金にまみれたエピソードのなかの一筋の光となり、読者に希望を与えてくれる。

 そうしていつのまにか、自分の内なる「お金で解決できるもの・できないもの」の基準が浮かび上がってくる。

 生活のためには、自分の体をどう使おうと自由と思えるか?
 お金さえ払えば、迷惑行為を反故にできると思うか?
 誰もが受けるべき公教育に、お金の力が及んでも良いと考えるか?
 お金のある人が得をしてもよい、と思えるのはどのような場合か?
 自分は、どんなときにお金を払ってでも権利を得たいと考えるか?

 いずれも結局は感覚の問題であり、何が正しくて何が悪いか、という結論は出ないかもしれない。

 ならば、このような議論は無駄なのか?不毛なのか?
 
 いや、決してそうではない。

 自分の中にある「お金で侵すことのできない聖域」に対する感覚が鈍くなっていないか、気づかぬうちに低きに流れていないか、を考えさせてくれるという点で、この議論は非常に価値があるのだ。
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 ことあるごとに、「それをお金で買いますか?」と己に問いかけてみよう。
 そのときにもし、口の中がザラついたら、「それ」はきっとあなたの尊厳を貶めるものに違いない。
 そしてそのザラつきは、あなたの中に人としての「誇り」がしっかりと根づいているという証明になるだろう。

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他のマイケル・サンデル関連書籍のレビューはこちら→「ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業」

「ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業」

 私には、他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会にはより適切でふさわしい理念のように思える。私たちの道徳的・宗教的な意見の相違が存在し、人間の善についての究極的な多元性が存在する限り、私たちは道徳的に関与することでこそ、社会の様々な善を、より深く理解できるようになると思える。(本文引用)
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 先日、日経新聞で、魅力的な授業をしている小学校教師が紹介されていた。

 記事によると、彼の授業は「教師対生徒」だけでなく「生徒対生徒」のつながりも重視しているという。

 「編み物に例えると、教師と児童の縦糸だけでは成立しない。子供同士の横糸が大切だ」(記事本文引用)。

 この記事を読み、私はある教授を思い出した。
 魅力的な「白熱する」講義で教室をわかせ、ベストセラー「これからの『正義』の話をしよう」(原題:「Justice」)を著した人物といえば、もうおわかりだろう。
 そう、ハーバード大学教授マイケル・サンデルだ。

 この本は、サンデル教授の名講義を書籍化した、夢のような書である。






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 講義はまず「正義」をテーマにとりあげ、「殺人に正義はあるか」から始まる。

 「ブレーキが利かず、猛スピードで走る列車の先に5人の労働者がおり、そのまま突っ込めば5人が死ぬ。
 しかし、脇の待避線に入れば5人は助かる。
 が、実は待避線にも1人の労働者がいる。
 5人を救うために、待避線の1人を死に至らしめるべきか否か」


 これは「これからの『正義』の話をしよう」でも挙げられている問題だが、要するに「犠牲になる命を選べるか」、「正義的視点から見て正当な殺人というものはあるか」ということである。

 いざ聞かれると「うーん」と悩んでしまうが、そこからがこの本の面白いところ。
 教室にいる学生たちと共に考えることができる。

 「1人殺せばすむところを、5人も殺すのは正しくない」というシンプルな意見から始まり、9・11の同時多発テロから歴史上の大虐殺まで意見は広がり、「少数の人の命と、多数の人の命」とは秤にかけられるのか、そしてそもそも「正しい殺人などあるのか」という究極の問いに帰結する。

 そのようなウォーミングアップから、講義は徐々に、ベンサム、ミル、ロック、カント等歴史上の哲学者たちが提唱した原則を引っ張り、それが正しいのか否かを皆で考察する学問的なものへと発展していく。

 なかでも興味深いのが、「リバタリアニズムの是非」を問う講義において、学生たちにリバタリアン・チームを結成させるものだ。

 リバタリアニズムとは「自由原理主義、市場原理主義」、すなわち「個人の自由や所有権を絶対不可侵と考える」主義である。

 ひとつ例にとれば、「ビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンといった億万長者に多額の課税をして、医療や教育を受けられない貧しい人たちを助けるという考えを、全面的に否定する」といったものだ。(※裕福な者への課税はすなわち強制労働にあたり、また財産の分配は所有権の侵害と捉えられる。)

 多くの学生は、このリバタリアニズムに反対の立場をとったが、一部、リバタリアニズムを支持する数名の学生がいた。
 その学生たちにチーム・リバタリアンを組ませ、反リバタリアニズムに対する反論をさせる。
 サンデル教授自身もリバタリアニズムに批判的なこともあり、学生たちは少々苦戦するが、ここで重要なのは「リバタリアニズムが正しいか否か」ではない。学生たちの論理が巧みかどうかではない。

 この講義に、学生たちがどれほど熱意をもって臨み、他者の様々な意見に耳を傾けて吸収し、自己を見つめるかである。

 よって、このチーム・リバタリアンの結成と議論は、まさに魅力ある授業の要である「生徒たちの横のつながり」を形成するものであり、また「多元的な社会に適切でふさわしい」講義のありかたといえる。

 これを叶える手腕こそがマイケル・サンデルであり、世界が注目する授業たる所以なのである。

 講義の内容はさらに、代理母、嘘と言い逃れ、入学試験、そしてより善い生き方・・・と広がっていくが、全講義を貫いているのは「バラバラな個々の人間は自己を所有しているが、同時に社会的な存在でもあるのではないか」という相克である。

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 その命題を軸足としたユーモラスな講義は、間違いなく私たち読者をも魅了し、「教授対読者」、「学生対読者」の縦糸と横糸が生まれることだろう。

 そしてその糸を紡ぎながら、私たちは自分自身がもつ様々な判断基準や生き方、そして社会の一員としての己を見つめなおすこととなるだろう。



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プロフィール

アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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