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平野啓一郎「『カッコいい』とは何か」感想。「カッコいい」は「人としての根源」に関わる深すぎる概念だった。

評価:★★★★★

 ナチスの制服は、もしそれがナチスという存在とまったく無関係であったならば、確かに「カッコいい」と見做されてしまうかもしれない。その上で、問題は、そう言って良いのか、ということである。
(本文引用)
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 「簡単に『カッコいい』と言ってしまってよいのか」

 その問題について、私はずっと考えていた。

 私の知人に、非常に顔が整った男性がいた。
 
 100人いれば100人が「イケメン・ハンサム・二枚目」と間違いなく称賛する顔。
 「神様、あなたずいぶん気合い入れたね」と、天を仰ぎたくなるような顔だった。

 ところが、である。

 「あの人、カッコいいよね」と言われると、なかなか返答できなかった。

 「あの人、イケメンだよね」と言われれば、「そうだね。俳優さんみたいだね」と答えられた。


 なのに「あの人、カッコいいよね」と言われると、いつも返事に詰まってしまう。
 ずっと黙ってるわけにもいかないので、「そうだね。いい顔してるよね~」という適当な返事をしていたのだ。

 なぜ私は「うん、そうだね。カッコいいよね」と言えなかったのか。

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 それは「カッコいい」と判断できるほど、その人を知らなかったから。
 「カッコいい、カッコ悪い」と言い切れるほど内面も行動も知らないため、どうにもこうにも「カッコいい」と言うことができなかったのだ。

 「そんなことを考えてしまう私は、ひどくつまらない人間かもしれない。周囲をしらけさせる人間かもしれない」・・・そう悩んでいたが、本書で安堵。

 やはり「カッコいい」という言葉は、安易に使ってはいけない言葉。
 魂レベルまで踏み込んで考えるべき、非常に深い概念。

 「人としての基盤」に関わる言葉といっても、過言ではないのだ。
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■「『カッコいい』とは何か」内容



 本書はタイトル通り「『カッコいい』の概念とは何か」を追求する本。

 ファッション雑誌のように「こうすればカッコよくなる」と導く本ではない。

 「そもそも『カッコいい』とは何なのか」について、徹底的に考察する本である。

 まず「カッコいい」とは、ただ「見た目が良い」と感じるような表層的なものではない。

 「しびれ」を起こす、いわば生理的興奮。

 人々は、その感情をもとに行動し、お金を消費する。
 音楽、ファッション、美術、文学、ジェンダー・・・あらゆる文化現象は、「カッコいい」=「しびれ」という突き動かされるような衝動のうえに成り立っているのである。

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 そんな生理的興奮がもとになっているだけに、「カッコいい」ポイントは人それぞれ。

 あくまで「己の価値観・感性で判断した『カッコいい』」で、人は動き歓喜する。

 「カッコいい」とは、他人が押し付けることはできない概念なのだ。

 ならば「カッコいい」は、たとえ「悪」とつながっていても良いのか。
 1人ひとりの価値観に任せるなら、「過ち」すら「カッコいい」にすり替わってもよいのか。

 本書では「カッコいい」の自由さを語りながら、「カッコいい」の「あるべき姿」にも言及する。

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■「『カッコいい』とは何か」感想



 「自由・真っ当・そのとおり!」

 新聞などで見かける平野さんの言葉は、常にこの3点セットがそろっている。

 自由なのに至極真っ当。
 真っ当なのに、空気を読みすぎて公言できないことを、スパッと言ってのけてくれる。

 平野氏の言葉は、常に「自由」と「人としての真っ当さ」を見事に両立。
 本書でも、そんな平野氏の魅力が遺憾なく発揮されている。

 特に平野節が効いてるのが、「倫理」と「カッコいい」とのズレだ。

 倫理的に許されないのに、それに連なるものが「カッコいい」とされて良いものか。

 「カッコいい」と感じるのは個人の自由。
 しかしそこに倫理が絡むとき、制限を設けてよいのか、ということである。

 本書では「カッコいい」と「倫理」、「カッコいいと言える自由」と「制限」について、ナチスの制服を挙げて言及する。

 ナチスの制服は、なぜか長年コスプレやアーティストの衣装に用いられている。

 その昔、沢田●二がハーケンクロイツまで入った制服で歌い、今もなおアイドルがナチスを思わせる衣装で舞台に上がる。
 ハロウィンパーティーに、ナチスのコスプレをして参加する人もいる。

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 それは果たして許されるのか。
 「カッコいい」と言う自由さと、ナチスの制服を着ることは相容れるのか。

 その問題に対する平野氏の主張に、私は思わずうなった。
 「やはりというか、さすが平野さん! もう迷うことはない。その主張を世の中に浸透させましょう!」と啓蒙したくなった。

 人は「カッコいい」と思う感情に、非常に弱い。
 文化の基盤を作り、経済をまわすのは「カッコいい」と思う「しびれるような気持ち」であろう。

 だからこそ、平野氏の言葉は重く受け止めたい。

 明らかに誰かが傷つく悪・過ちをも、「カッコいい」と定義づけて良いのか。

 その議論を蔑ろにすることは、「人として越えてはいけない一線」を軽視すること。
 人としての一線を軽く見れば、どんな文化・経済も砂上の楼閣だ。

 本書は、「カッコいい」という概念を通じ、「人としてのあり方」を気づかせる。
 「真に人が幸せになる、心地よくなる文化」をつくる指南書なのだ。

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平野啓一郎新刊「ある男」感想。夫婦の危機を感じたら、とりあえず読んでみて!

評価:★★★★★

夫だったはずだと思う。しかし、遠ざかってゆくその背中に呼びかける本当の名前は、彼女自身も知らないのだった。
(本文引用)
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 読書芸人でも紹介され、話題となった「マチネの終わりに」
 途中、アンジャッシュのコントを思わせる「勘違い・すれ違い」は息をのむもの。

 「マチネの終わりに」はベストセラーとなったようだが、私も非常に楽しんで読めた。

 それに続く新刊「ある男」も、ある意味「勘違い・すれ違い」がスパイスとなる小説。
 
 愛していた夫が、死後、全くの別人と判明。
 優しかった夫の正体とは?
 そして、そもそも私たちは誰の何を信じ、愛し、人生を歩んでいくのか?

 本書はサスペンスフルなストーリーで、「人が人を愛すること」の根源にググッと迫っていく。


  
 今現在、夫婦の危機を感じている人、離婚は絶対にしたくないけど、連れ合いとどことなくしっくりこない人。
 
 「ある男」は、そんな人におすすめの一冊。
 もちろん夫婦仲が絶好調な人も、読んで損なし!

 夫の、妻の、どこを好きになり、どんなことに信頼を置き、共に人生を歩んでいるのか。

 そんなことを再確認でき、ますます愛情が深まるだろう。

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■「ある男」あらすじ



 語り手の男性は、ある日、バーでひとりの弁護士と出会う。
 弁護士の名は城戸という。

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 しかし城戸は最初、偽名も経歴も全て嘘で固めた自己紹介をした。

 なぜ城戸はそんなことをしたのか。

 それは城戸が受けた依頼が、全て嘘で固めた人間の話だったから。

 依頼人の女性・里枝は、夫を事故で亡くす。

 幼子を抱えた状態で夫を亡くしたことで、周囲は不憫に思うが、そんな事態では終わらなかった。

 実は夫・谷口大祐は偽物だったと判明。

 大祐の兄も、元恋人も、遺影を見て「大祐ではない」と証言。

 里枝が愛した、心優しい夫「谷口大祐」とは、いったい誰だったのか。
 
 そして過去が違ったことで、夫への愛は揺らぐのか。

 城戸は調査を進めながら、城戸自身の夫婦の形をも探っていく。

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■「ある男」感想



 「愛していた人が偽物だった」-そういう物語は、世の中に結構ある。
 しかし本書は、似たような形式の小説のなかで断トツに面白かった。読み応えがあった。
 
 その理由は、「愛」というものをとことん深く掘り下げているから。

 「愛していた夫が偽物だった。いったい誰だろう?」というところで終わってしまえば、それはそれで面白いが、ただのミステリー小説だ。
 
 だが「ある男」は、そこで終わらない。

 偽物夫の正体をつかむまでの軌跡も、非常に練られていて面白い。
 しかしそれ以上に、偽物夫の存在を通して、「愛」について考えることができるのが、本書の醍醐味。

 そもそも恋とは何か。
 相手のどこに恋し、一緒にいたいと思うのか。
 さらに恋を実らせ、継続させていくには信頼が必要だが、なぜ我々は相手を信頼できるのか。
 よく考えたら、交際ひいては結婚とは、ものすごく不透明でハイリスクなことなのではないか?

 そんな「愛」というものの不思議さ、危うさを、本書はハッとするほど気づかされる。

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 今、目の前にいる伴侶が、実は名前も経歴も全く違うということが、ないわけではない。

 では万が一そうだったとしたら、私は相手を嫌いになるのか?
 私の伴侶への愛は、いったい何に基づいているのか?

 そんなことを突き詰めて考えると、結婚や家族形成というものに対する「自分なりの答え」が見えてくるはず。

 だから本書は「今、夫婦の危機を感じている人」「どことなくしっくりこない人」におすすめ。

 子はかすがいというが、この「ある男」も十分「かすがい」となってくれるだろう。

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マチネの終わりに  平野啓一郎

評価:★★★★★

 自分はやがて、極自然に彼女を愛さなくなるだろうか。
(本文引用)
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 昨年、「恋とはどんなものかしら」というドラマがヒットした。もしも、この小説を読んでいる時にそう問われたら、私はこう答えるだろう。「恋とは、人を罪人にする」と。

 人は恋をすると、どうしてこう色々と間違えてしまうのか。この物語の登場人物の言葉、行動、胸の内のつぶやき、それら1つひとつをなぞりながら、私はそんなことを考えた。

 そして、こんな思いが心をよぎった。
 いっそ、「恋」という感情などなくなってしまえばよいのに――。

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 クラシック・ギタリスト蒔野聡史は、自分のコンサートの終演後、一人の女性を紹介される。蒔野は、その女性、小峰洋子にたちまち惹かれる。



 通信社の記者である洋子は、仕事がら危険な地域に赴くことがあり、実際に命の危険にもさらされる。
 蒔野は、そんな洋子の身を案じながら、ますます洋子への思いを強くしていくが、洋子には婚約者がいた。

 二人は口に出せない思いを抱えながら、次第に距離を縮めていくが・・・。

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透明な迷宮 平野啓一郎

 「あんた、捜してる人、見つけられないと思う。」
 「何?」
 「存在しない人間を捜してるのよ。」

(本文引用)
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 先日、当ブログで紹介した「集合知とは何か」(西垣通著)で、平野啓一郎の分人主義について触れられている。
 「私とは何か」の一節を取り上げながら、「平野啓一郎は(中略)近代的な個人という理念にたいして正面から異議を申し立てている」と、西垣氏は語る。

 その「理念に対する異議」は「分人」である。
  「一人の人間は、『分けられない individual』存在ではなく、複数に『分けられる dividual』存在である」とし、「首尾一貫した本来の自己などは存在しない」
 そして、特に匿名やハンドルネームでやり取りをするネット社会では、そんな「複数の分人」を生きることが、精神のバランスを保つためには欠かせないという。


 この「私とは何か」の「分人主義」は、私も大変面白く読んだ。
 そしてその思想に心酔しながら、つづく「空白を満たしなさい」も夢中になって読んだ。

 そして今回の「透明な迷宮」である。
 帯に書かれた平野氏のメッセージでは、「分人」という概念を使っての執筆は一区切りついたとされているが、私はこの「透明な迷宮」も「分人主義」に基づく小説だと解釈した。

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空白を満たしなさい 平野啓一郎

 僕は、早くに父を亡くしていますが、その父と一緒に写っている母の写真を見て、ある時、ハッとしたんです。母のそんな表情を、僕は一度も見たことがありませんでした。そこに写ってたのは、父と一緒にいた時の母の分人です。そして母は、その自分を、父の死後、二度と生きることが出来ませんでした。
(本文引用)
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 まだ今年が終わるまで半月以上あるが、今年は良い年だったと思う。
 なぜなら、この思想にめぐり合えたからだ。

 それは、「分人」主義。

 小説家平野啓一郎氏が提唱する、新しい「自己の捉え方」である。

 詳しくは「私とは何か ~『個人』から『分人』へ~」のレビューで書いたが、私はこの考え方により、生きるのがグンと楽になった。

 人間関係における己の中の葛藤や苦悩-接する相手によって、自分のキャラクターが変わってしまう(明るかったり大人しかったり)ことからくる自己嫌悪-から解放されたのだ。



 そしてまた一方で、SNS等の隆盛による「分人を許容しない時代」の恐ろしさをも認識することができた。

 この「分人」主義を知ったのは、自分にとっては革命的なことであり、この知見を得ただけで2012年は非常に有意義なものであったと個人的には思っている。

 そしてその「分人主義」を小説化した、この「空白を満たしなさい」
 胸を躍らせながら買ったこの本だが、読むうちに、私はひどく落ち込んでいった。
 「『分人主義』というものを軽く考えすぎていた、あるいは“舐めていた”のではないか」-そんなことを痛感させられたからである。
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 主人公・土屋徹生は36歳。3年前に自殺したサラリーマンだ。
 この度、なぜか現世に生きて戻ってくることができた。

 生き返ったのは、徹生だけではない。世界各地で同じような人物「復生者」が、続々と現れる。

 そのようななかで徹生は「自分は決して自殺などしない」と、自分を殺した犯人探しを始める。
 遺した妻や幼い息子、お世話になった人たち、そして「復生者」たち-彼らと触れ合っていくうちに、徹生が見つけた本当の答とは-。
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 読み始めた当初は、私も徹生と一緒に「そうだ、絶対に自殺なんかしていない。あいつが犯人だ。いや、もしかしたらあいつかも」などとミステリーを読んでいる気持ちになり、自殺に見せかけるトリックまで考えていた。想定される犯人を、憎みさえした。

 しかし次第に、この小説はそんなに単純なものではないと感じ始めた。
 
 人はなぜ生きるのか、なぜ死ぬのか。
 本当に悲しいのは死んだ本人なのか、遺された人たちなのか。
 
 徹生や周囲の人々の心の揺れを目の当たりにし、私は滂沱のごとく涙を流しながら、「そしてなぜ、これほどまでに『死』は悲しいのか」を考えずにはいられなかった。

 私は分人主義思想を、生きるのを楽にする処方箋としか捉えていなかった。
 しかしそれだけではない。
 「死んでしまった人」と「遺された人」の心の核、つまり「人間の悲しみの根源」に迫る機能をも併せ持つのである。

 「死んだ人が生き返る小説なんて、生命の軽視ではないか」
 そんなことを思う人もいるかもしれない。
 しかしそれは逆だ。
 ある意味「生命をふたつ」持った者たちの物語ではあるが、これを読むとなおいっそう「生命は本当に、ひとつしかない」ということを強く認識させられるはずだ。

 読んで良かった。
 本当に、読んで良かった。
 心からそう思える一冊である。

「私とは何か ~『個人』から『分人』へ~」

 「自分の親しい人間が、自分の嫌いな人間とつきあっていることに口出しすべきではないと、私は書いた。大好きな人間の中にも、大嫌いな人間の何かしらが紛れ込んでいる。そこに、私たちの新しい歩み寄りの可能性があるのではないだろうか」
 (本文引用)
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 今まで新書で、こんなに感動したことがあっただろうか。
 新書は多くの知識を授けてくれ、物の見方を教えてくれ、そして世界を広げてくれる。
 しかし、まさか新書でここまで胸を打たれるとは思ってもみなかった。

 そんな、新書でありながら小説に勝るとも劣らない感動の名作が、今回ご紹介する「私とは何か ~『個人』から『分人』へ~」だ。
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 書店で新刊を目にすると、思わず買ってしまう平野啓一郎の本。
 
 私の職場でも人気が高く、以前昼休みに「決壊」を読んでいたら、他部署の話したこともない人から「あっ!それすごく面白いですよね!でも怖いですよね!私、夜を徹して読んじゃいましたよ!」と生き生きと熱く語られたことがある。ちなみに私の夫も、平野啓一郎は好きなようだ。

 なぜこれほどまでに平野啓一郎作品は人気があるか。 
 それは、気がつきそうで気がつかなかった新しい視点を提供してくれるからだ。
 
 この「気がつきそうで気がつかなかった」というのがポイントで、「全く考えたこともない」というわけでもない。

 そんな視点のひとつが、「分人主義」。「個人」ではなく「分人」という考え方だ。

 平野氏は、この「分人主義」について三部作を書いており、前述の「決壊」は、ブログ等を題材として、物理的には1人である人間が実はいくつもの顔を持っているという現実を顕わにした作品だ。
 そして次に出された近未来小説「ドーン」では、明確に「分人主義」という用語が示され、つづく三作目「かたちだけの愛」では、「自分にとって愛とは何か」という疑問を提示している。

 今回の新書は、そんな「1個の人間は、1つではなく、いくつもの本当の顔を持っている」=「分人主義」という考え方について、多方面からたっぷりと解説されている。

 一瞬不思議に思えるかもしれないが、この考え方をもつと、人間関係の悩みを一気に「自分の中で」スッキリと解決することができる。
 もしかしたら、それで人生も変わるかもしれない。「分人主義」とは、そんな魔法の処方箋だ。
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 この「分人主義」思想は、家族、友人、恋人など良好な人間関係や、コンビニやスーパーの店員等密度の薄い関係においても適応できるが、注目すべきは「どうにも嫌いな人」とのつきあいで、その力を発揮するという点だ。

 自分に接している時の、嫌いな相手の姿とは、その相手の「分人」された一部分でしかない。だから「あいつは嫌なヤツだ」と相手をまるごと否定して腹を立てることはない。嫌な相手の姿は、「自分といる時」に限定されると考えるべきだ、という。

 この考え方は一見、もっとストレスがたまりそうだが、現代では欠かせない考え方といえる。








 なぜなら、今やSNSで、自分の好きな人と嫌いな人とが楽しそうに交信している様子を見ることができるという恐ろしい時代だからだ。
 平野氏自身、それを目の当たりにして不快に思ったことがあるというが、分人主義に基づいて考えれば、「なぜあいつとあいつが仲いいんだ!」と腹を立てることもない、という。
 この考え方は、ネットの有無に限らず、処世術として持つべきものだと思うが、現代では、誰もが備えるべき「不可欠な思想」といえるだろう。

 さらに重要なのは、人間は「分人構成比率」によって変わることができる、という考え方だ。

 誰とどのようにつきあうかで、自分の中の分人構成比率は変わり、それによって人生まで変わる、要するに「つきあう相手を選べ」ということだ。
 それについて平野氏は、「だから、あなたも生きぬいて」の大平光代さん(養父の力によって非行から更生し、弁護士となった)を例にとり、人生にとって「足場となる」分人(=大平さんにとっての養父)を中心にすえ、他の分人(=不良仲間等)を整理することの重要性を説く。

 また平野氏は、分人主義の効用を語るにあたり、昨今の「いじめ」問題を取り上げる。
 いじめられている人について、「自身を『いじめられるタイプの人間だ』などと考えるな」、と語り、気持ちを明るくできる場所、人間関係があるのならば、「その分人こそを足場として生きる道を考えるべき」(本文引用)と主張する。

 それだけに、学校が引けてからも「いじめメール」などを送りつける人間について、平野氏は激しく糾弾する。
 学校でいじめられている分人から、家庭で安心している分人になろうとしているのに、それをさせないなど「浅はかで陰湿な人間」がやることと断じている。

 私はこの部分を読み、最近、いじめという犯罪による自殺が増えている理由が「ハッ」とするほどわかった。

 その気づきは以前、新聞で読んだ「いじめを受けたのに自殺をしなかった人たち」に関する記事にさかのぼる。
 ある大学の教授が、学生たちに「いじめを受けたことがあるか」と聞いたところ、多くの学生が「ある」と答えたという。
 そして教授は、「ある」と答えた学生たちに「なぜ自殺をしなかったのか」と聞いた。
 そのなかで多かった答は、「家庭や習い事など他の場所があったから」というものだった。

 これぞまさしく「分人主義」の効用である。
 平野氏の言葉を借りれば、彼らは「いじめを受けている自分という分人」のみを消し去り、他の「輝いている自分という分人」を残すことで、「自分全体を消し去る」=「自殺」という最悪の結果を避けることができたのだ。

 しかし、今はどうだろう。
 先の話を繰り返すようだが、ネット全盛の今、いじめは掲示板やメールで被害者を24時間捕らえて離さず、被害者が他の世界で生き生きと過ごすということを決して許さない。

 生きる足場を突き崩される、いや、足場を作ることさえ許されない被害者は、いったいどうやって生きればよいのだ。
 「いじめられている自分」以外の姿を見つけることができない被害者は、その辛さをいったいどこで緩めればよいのだ。

 この本を読み、改めて「昔とは著しく違う『いじめ』の構造」に思いをめぐらせ、また「便利さ」と引き換えに「甚大な生きにくさ」を手にしてしまったことを痛感した。

 分人主義思想は、この他にも、パワハラ、ストーカー、専制政治、死・・・と、人間が引き起こす問題の隅々にまで適応され、それぞれについて解決の糸口が示される。その説得力の高さは、「なるほど」と目からウロコがボロボロと落ちるほどであり、改めて平野氏の力量に驚き、尊敬の念を強めた。

 この本を読み、平野啓一郎という小説家は本当に「人間というものを愛している」のだ、と強く、強く感じた。

 そして気がついたら、涙がこぼれていた。

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「決壊」

「分かるね?私は、-いや、俺はつまりお前だ。お前の言った通り、俺はどこにも存在しない非存在だ。お前の作り出した幻だよ。お前は自分が映し出された鏡を見ている。それが、お前の本当の姿だ。」(本文引用)
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 この小説の登場人物は、一体何人いるのだろうか。
 1人ともいえるし、数え切れないともいえる。
 いや、もしかしらたゼロなのかもしれない。

 なぜなら、この物語に出てくる人物は1人ひとりが複数の「自分」を持っており、またそのどれもが透明で、つかもうとしてもつかめない存在だからだ。

 現実の「自分」と仮想の「自分」、自分が認識する「自分」と他人が認識する「自分」。
 
 本当の自分とは、一体誰なのか。
 人を汚し、血に染まったこの手は、一体誰の手なのか。

 そんな壊れゆく人々を描いた小説、その名を「決壊」という。
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 主人公である沢野良介は、妻・佳枝と3歳の息子と共に幸せな家庭を築いているサラリーマン。
 一方、良介の兄・崇はエリートでありながらも、自由を好み、独身のまま多数の女性と関係をもっている。
 穏やかで平凡を好む弟と、そんな生活は御免とばかりに羽を伸ばす兄。
 一見どこにでもある兄弟や家族の構図に思えるが、ある日、それが崩れる時が来る。

 佳枝は偶然、良介が書いていると思われるブログを発見する。
 そこには良介自身のことだけでなく、佳枝のことも書かれていた。





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 名前が明かされていないとはいえ、自己のプライバシーが世の中にばらまかれているような気がした佳枝は、言いようもない不快感を抱く。
 と同時に、自分の生活に他人が介在しているような不安に襲われるようになる。
 
 そこで佳枝は、見ず知らずの他人のふりをして良介のブログにコメントを残す。
 しかしそこにはもう一人、頻繁にアクセスしていると思われる人物がいた。


 
 そんなある日、良介が惨殺死体となって発見される。
 ブログから推測される、良介と最後に会った人物はハンドルネーム「666」。
 それはコメントの内容から「崇ではないか」と佳枝や警察は疑い、崇は逮捕される。

 しかしその後、事件は連続殺人へと発展。
 捜査陣はついに、ネット社会に潜む真の「悪魔」を見つけ出す。
 その者もまた、現実とは違う「もう一人の」仮想の自分をもつ人間だった。
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 ・・・これほど恐ろしく、これほど救いのない小説は、なかなかない。
 私はこの小説を何度も再読しているのだが、そのたびに、石を胸の奥につまらせたような重苦しい気持ちになる。
 
 なのになぜ、何度も読んでしまうのか。

 それはこの小説が、一見無関係に思える多数の人間が登場し、物語が同時進行していった末に集約されるという多重構成をとっており、読むたびに新しい発見があるからだ。

 そしてもうひとつ。
 私もまた、仮想と現実とを行き来する人間だからだ。

 ツイッター、ブログ、フェイスブック・・・それらを書くことで、私は自分のようで自分ではない「もう1人の自分」、「存在しない自分」と日々向き合い、またROMをすることで他人の生活に入り込む感覚を味わっている。
 だからこそ、私はこの小説が怖くて仕方がない。そして、だからこそ、この小説を読まなくてはならないと感じるのだ。

 なぜなら、この小説は教えてくれるから。

 ネットの海につながる「現実」というダムが決壊したとき、仮想と現実とを挟む壁が決壊したとき、人間自身も決壊する、と。
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プロフィール

アコチム

Author:アコチム
反抗期真っ最中の子をもつ、40代主婦の読書録。
「読んで良かった!」と思える本のみ紹介。
つまらなかった本は載せていないので、安心してお読みください。

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