平野啓一郎「『カッコいい』とは何か」感想。「カッコいい」は「人としての根源」に関わる深すぎる概念だった。
評価:★★★★★
ナチスの制服は、もしそれがナチスという存在とまったく無関係であったならば、確かに「カッコいい」と見做されてしまうかもしれない。その上で、問題は、そう言って良いのか、ということである。
(本文引用)
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なのに「あの人、カッコいいよね」と言われると、いつも返事に詰まってしまう。
ずっと黙ってるわけにもいかないので、「そうだね。いい顔してるよね~」という適当な返事をしていたのだ。
なぜ私は「うん、そうだね。カッコいいよね」と言えなかったのか。
それは「カッコいい」と判断できるほど、その人を知らなかったから。
「カッコいい、カッコ悪い」と言い切れるほど内面も行動も知らないため、どうにもこうにも「カッコいい」と言うことができなかったのだ。
「そんなことを考えてしまう私は、ひどくつまらない人間かもしれない。周囲をしらけさせる人間かもしれない」・・・そう悩んでいたが、本書で安堵。
やはり「カッコいい」という言葉は、安易に使ってはいけない言葉。
魂レベルまで踏み込んで考えるべき、非常に深い概念。
「人としての基盤」に関わる言葉といっても、過言ではないのだ。
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本書はタイトル通り「『カッコいい』の概念とは何か」を追求する本。
ファッション雑誌のように「こうすればカッコよくなる」と導く本ではない。
「そもそも『カッコいい』とは何なのか」について、徹底的に考察する本である。
まず「カッコいい」とは、ただ「見た目が良い」と感じるような表層的なものではない。
「しびれ」を起こす、いわば生理的興奮。
人々は、その感情をもとに行動し、お金を消費する。
音楽、ファッション、美術、文学、ジェンダー・・・あらゆる文化現象は、「カッコいい」=「しびれ」という突き動かされるような衝動のうえに成り立っているのである。
そんな生理的興奮がもとになっているだけに、「カッコいい」ポイントは人それぞれ。
あくまで「己の価値観・感性で判断した『カッコいい』」で、人は動き歓喜する。
「カッコいい」とは、他人が押し付けることはできない概念なのだ。
ならば「カッコいい」は、たとえ「悪」とつながっていても良いのか。
1人ひとりの価値観に任せるなら、「過ち」すら「カッコいい」にすり替わってもよいのか。
本書では「カッコいい」の自由さを語りながら、「カッコいい」の「あるべき姿」にも言及する。
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「自由・真っ当・そのとおり!」
新聞などで見かける平野さんの言葉は、常にこの3点セットがそろっている。
自由なのに至極真っ当。
真っ当なのに、空気を読みすぎて公言できないことを、スパッと言ってのけてくれる。
平野氏の言葉は、常に「自由」と「人としての真っ当さ」を見事に両立。
本書でも、そんな平野氏の魅力が遺憾なく発揮されている。
特に平野節が効いてるのが、「倫理」と「カッコいい」とのズレだ。
倫理的に許されないのに、それに連なるものが「カッコいい」とされて良いものか。
「カッコいい」と感じるのは個人の自由。
しかしそこに倫理が絡むとき、制限を設けてよいのか、ということである。
本書では「カッコいい」と「倫理」、「カッコいいと言える自由」と「制限」について、ナチスの制服を挙げて言及する。
ナチスの制服は、なぜか長年コスプレやアーティストの衣装に用いられている。
その昔、沢田●二がハーケンクロイツまで入った制服で歌い、今もなおアイドルがナチスを思わせる衣装で舞台に上がる。
ハロウィンパーティーに、ナチスのコスプレをして参加する人もいる。
それは果たして許されるのか。
「カッコいい」と言う自由さと、ナチスの制服を着ることは相容れるのか。
その問題に対する平野氏の主張に、私は思わずうなった。
「やはりというか、さすが平野さん! もう迷うことはない。その主張を世の中に浸透させましょう!」と啓蒙したくなった。
人は「カッコいい」と思う感情に、非常に弱い。
文化の基盤を作り、経済をまわすのは「カッコいい」と思う「しびれるような気持ち」であろう。
だからこそ、平野氏の言葉は重く受け止めたい。
明らかに誰かが傷つく悪・過ちをも、「カッコいい」と定義づけて良いのか。
その議論を蔑ろにすることは、「人として越えてはいけない一線」を軽視すること。
人としての一線を軽く見れば、どんな文化・経済も砂上の楼閣だ。
本書は、「カッコいい」という概念を通じ、「人としてのあり方」を気づかせる。
「真に人が幸せになる、心地よくなる文化」をつくる指南書なのだ。
ナチスの制服は、もしそれがナチスという存在とまったく無関係であったならば、確かに「カッコいい」と見做されてしまうかもしれない。その上で、問題は、そう言って良いのか、ということである。
(本文引用)
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「簡単に『カッコいい』と言ってしまってよいのか」
その問題について、私はずっと考えていた。
私の知人に、非常に顔が整った男性がいた。
100人いれば100人が「イケメン・ハンサム・二枚目」と間違いなく称賛する顔。
「神様、あなたずいぶん気合い入れたね」と、天を仰ぎたくなるような顔だった。
ところが、である。
「あの人、カッコいいよね」と言われると、なかなか返答できなかった。
「あの人、イケメンだよね」と言われれば、「そうだね。俳優さんみたいだね」と答えられた。
その問題について、私はずっと考えていた。
私の知人に、非常に顔が整った男性がいた。
100人いれば100人が「イケメン・ハンサム・二枚目」と間違いなく称賛する顔。
「神様、あなたずいぶん気合い入れたね」と、天を仰ぎたくなるような顔だった。
ところが、である。
「あの人、カッコいいよね」と言われると、なかなか返答できなかった。
「あの人、イケメンだよね」と言われれば、「そうだね。俳優さんみたいだね」と答えられた。
なのに「あの人、カッコいいよね」と言われると、いつも返事に詰まってしまう。
ずっと黙ってるわけにもいかないので、「そうだね。いい顔してるよね~」という適当な返事をしていたのだ。
なぜ私は「うん、そうだね。カッコいいよね」と言えなかったのか。
それは「カッコいい」と判断できるほど、その人を知らなかったから。
「カッコいい、カッコ悪い」と言い切れるほど内面も行動も知らないため、どうにもこうにも「カッコいい」と言うことができなかったのだ。
「そんなことを考えてしまう私は、ひどくつまらない人間かもしれない。周囲をしらけさせる人間かもしれない」・・・そう悩んでいたが、本書で安堵。
やはり「カッコいい」という言葉は、安易に使ってはいけない言葉。
魂レベルまで踏み込んで考えるべき、非常に深い概念。
「人としての基盤」に関わる言葉といっても、過言ではないのだ。
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■「『カッコいい』とは何か」内容
本書はタイトル通り「『カッコいい』の概念とは何か」を追求する本。
ファッション雑誌のように「こうすればカッコよくなる」と導く本ではない。
「そもそも『カッコいい』とは何なのか」について、徹底的に考察する本である。
まず「カッコいい」とは、ただ「見た目が良い」と感じるような表層的なものではない。
「しびれ」を起こす、いわば生理的興奮。
人々は、その感情をもとに行動し、お金を消費する。
音楽、ファッション、美術、文学、ジェンダー・・・あらゆる文化現象は、「カッコいい」=「しびれ」という突き動かされるような衝動のうえに成り立っているのである。
そんな生理的興奮がもとになっているだけに、「カッコいい」ポイントは人それぞれ。
あくまで「己の価値観・感性で判断した『カッコいい』」で、人は動き歓喜する。
「カッコいい」とは、他人が押し付けることはできない概念なのだ。
ならば「カッコいい」は、たとえ「悪」とつながっていても良いのか。
1人ひとりの価値観に任せるなら、「過ち」すら「カッコいい」にすり替わってもよいのか。
本書では「カッコいい」の自由さを語りながら、「カッコいい」の「あるべき姿」にも言及する。
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■「『カッコいい』とは何か」感想
「自由・真っ当・そのとおり!」
新聞などで見かける平野さんの言葉は、常にこの3点セットがそろっている。
自由なのに至極真っ当。
真っ当なのに、空気を読みすぎて公言できないことを、スパッと言ってのけてくれる。
平野氏の言葉は、常に「自由」と「人としての真っ当さ」を見事に両立。
本書でも、そんな平野氏の魅力が遺憾なく発揮されている。
特に平野節が効いてるのが、「倫理」と「カッコいい」とのズレだ。
倫理的に許されないのに、それに連なるものが「カッコいい」とされて良いものか。
「カッコいい」と感じるのは個人の自由。
しかしそこに倫理が絡むとき、制限を設けてよいのか、ということである。
本書では「カッコいい」と「倫理」、「カッコいいと言える自由」と「制限」について、ナチスの制服を挙げて言及する。
ナチスの制服は、なぜか長年コスプレやアーティストの衣装に用いられている。
その昔、沢田●二がハーケンクロイツまで入った制服で歌い、今もなおアイドルがナチスを思わせる衣装で舞台に上がる。
ハロウィンパーティーに、ナチスのコスプレをして参加する人もいる。
それは果たして許されるのか。
「カッコいい」と言う自由さと、ナチスの制服を着ることは相容れるのか。
その問題に対する平野氏の主張に、私は思わずうなった。
「やはりというか、さすが平野さん! もう迷うことはない。その主張を世の中に浸透させましょう!」と啓蒙したくなった。
人は「カッコいい」と思う感情に、非常に弱い。
文化の基盤を作り、経済をまわすのは「カッコいい」と思う「しびれるような気持ち」であろう。
だからこそ、平野氏の言葉は重く受け止めたい。
明らかに誰かが傷つく悪・過ちをも、「カッコいい」と定義づけて良いのか。
その議論を蔑ろにすることは、「人として越えてはいけない一線」を軽視すること。
人としての一線を軽く見れば、どんな文化・経済も砂上の楼閣だ。
本書は、「カッコいい」という概念を通じ、「人としてのあり方」を気づかせる。
「真に人が幸せになる、心地よくなる文化」をつくる指南書なのだ。